ミアと書かれた紙
アルトさんが最初に食卓へ出したのは、罫線の入った紙が一枚と、インク壺と、使い込んだペンだけだった。
もっと分厚い束が出てくるものだと思っていた。
「今日は、保護の記録を作ります。分かることだけ書きます。分からないことは書きません」
アルトさんはミアに向かってそう言い、ペン先をインクに浸した。今日も指が青黒い。
俺は食卓の端の椅子に座っていた。午前中に荷揚げ場で半日働いてきたので、外套の裾に麦の粉がついている。エッダさんに玄関で払われた。
昨夜も森の端で越した。雨の夜は麦わら亭に泊まるが、晴れていれば森のほうが安い。ただ、それだと誰かが俺に用があっても、どこへ来ればいいのか分からない。そのことが、近ごろ少しずつ気になり始めている。
「お名前は」
「ミア」
アルトさんがペンを動かす。紙の上に、くるりと丸い字と、縦に伸びる字が並んだ。
「家の名前……姓は、ありますか」
ミアは膝の上で手を握った。目が、紙のどこでもないところを見ている。
アルトさんは待った。三つ数えるくらい待って、それから、何も書かずに次の欄へペンを移した。
「年は」
「九さい」
「ここへ来る前は、どこにいましたか」
「……ハルネの、院」
「その前は」
「村。おばあちゃんと」
そこで言葉が止まった。村の名前は出てこなかった。アルトさんはまたしばらく待ち、また何も書かなかった。
「ご家族のことで、話せることはありますか」
ミアは首を横に振った。小さく、一度だけ。
「では、ここは空けておきます」
アルトさんの声は、さっきから少しも調子が変わらなかった。ミアが話したときも、話さなかったときも、同じ速さでペンが動いて、同じ速さで止まる。
ミアが顔を上げた。
「空いてるところ、あとで書いてもいい?」
「いつでも。書き足すための紙ですから」
アルトさんは紙を少しミアのほうへ寄せて、下のほうの欄を指した。
「ここからは、預かる家のための欄です。好きな食べ物は」
「皮のかたい、あまいパン」
即答だった。
「外がかりっとしてて、中がふかふかで、上にちょっとお砂糖がのってるのがいいの。お砂糖が焦げてると、もっといい。焦げすぎは、だめ」
アルトさんのペンが、ミアの説明を追いかけて忙しく動いた。どこまで書くのか見ていたら、「焦げすぎはだめ」まできっちり書いていた。
「苦手な食べ物は」
ミアは一瞬だけ口を開けて、閉じた。
「……ない」
エッダさんが、茶を注ぐ手を止めずに、ちらりとミアを見た。何も言わなかった。
*
それから、話は大人の番になった。
アルトさんはもう一枚の紙を出し、エッダさんの前に置いた。一時保護の取り決めだという。期間はひとまず一か月で、その後は見直す。必要な費用は神殿の保護費から出る。アルトさんが週に一度、様子を見に来る。エッダさんは一行ずつ指でたどって読み、二か所について質問し、それから署名した。
最後に、アルトさんは俺のほうを向いた。
「ユウさんの連絡先も、うかがっておきます。助けた方のお話が、あとで要るかもしれないので」
連絡先。俺は少し考えた。
「雨の日は麦わら亭です。晴れの日は……北門の外の、森の端です。昼間なら荷揚げ場にいます。ガストンさんに言ってもらえれば、声が大きいので、たぶん町じゅうに届きます」
アルトさんは真面目な顔のまま、それを全部書いた。覗き込むと、最後の行がやけに長い。
「何て書いたんですか」
「『荷揚げ場、荷役頭ガストン氏に伝言。声が大きい』」
「そこまで書くんですか」
「探す人が迷わないように」
エッダさんが紙の上の行を指でたどって、ため息をついた。
「森の端、なんて書いてある連絡先は、私は初めて見たよ」
責める声ではなかった。ただ、その一行は、たしかに紙の上でいちばん落ち着きが悪かった。
「それと、照会の手紙を出します」
アルトさんが言った。
「ハルネの院へ、ミアさんがいつ、どういう経緯で入ったのか、記録を出してもらいます。院が知っている親族がいれば、その方にも」
俺は思わず口を開いていた。
「本人が話していないことを、こっちで調べていいんですか」
言ってから、責めるような声になったと思った。アルトさんは嫌な顔をしなかった。答えたのは、エッダさんだった。
「この子から無理に聞き出すことはしないよ。それは、この子が話したいときに話すことだからね」
エッダさんは、照会の紙のほうを指で叩いた。
「でも、この子を送り出した院の手続きは、大人が確かめなくちゃいけない。どこで間違って、あんな連中の手に渡ったのか。それを本人に調べさせるわけにはいかないだろう。それに、どこかで誰かが探しているかもしれない。探している人がいるなら、こっちから見つけやすくしておくのも、大人の仕事さ」
ミアが、エッダさんを見た。
「手紙、どこまで行くの?」
「ハルネまで。定期便の馬車で四日です」とアルトさんが答えた。「返事は、早くても半月はかかります」
ミアはうなずいて、それ以上は聞かなかった。手の中で、器の縁をゆっくりなぞっていた。
*
アルトさんは姓の欄も、家族の欄も、空けたまま紙を畳まなかった。
帰り際、アルトさんが記録の紙を乾かしているあいだに、ミアが俺の袖を引いた。
「ユウ、これ」
紙の一番上を指さしている。
「これが、ミア」
丸い字と、縦に伸びる字。二つだけ。
「ここが『ミ』で、ここが『ア』」
俺はかがみこんで、その二つの形を見た。丸いほうは、閉じきらずに尻尾みたいな線が外へ出ている。縦の字は途中で一度だけ右へ折れる。
「覚えた」
「ほんと?」
「たぶん」
ミアは疑わしそうに俺を見て、それから、少し得意そうな顔をした。
次の訪問は四日後の昼過ぎに決まった。玄関で、エッダさんが俺の外套の裾をもう一度払った。粉はさっき全部落としてもらったはずだった。
荷揚げ場へ戻る途中、俺は道端の土に木の枝で丸い字を書いた。尻尾の線を外へ出す。隣に縦の字。途中で一度、右へ。
その隣に、カタカナで「ミア」と書いてみた。こっちなら目をつぶっていても書ける。並べてみると、同じ子の名前なのに、俺の書き慣れた字のほうが、ずいぶん遠い国の字に見えた。
通りかかった荷車の御者が、二種類の落書きを覗いて首をかしげ、そのまま行ってしまった。
合っているかどうかは、四日後に聞けばいい。




