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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一章 一度目の人生と、四人の子供

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17/22

ミアと書かれた紙

アルトさんが最初に食卓へ出したのは、罫線の入った紙が一枚と、インク壺と、使い込んだペンだけだった。


もっと分厚い束が出てくるものだと思っていた。


「今日は、保護の記録を作ります。分かることだけ書きます。分からないことは書きません」


アルトさんはミアに向かってそう言い、ペン先をインクに浸した。今日も指が青黒い。


俺は食卓の端の椅子に座っていた。午前中に荷揚げ場で半日働いてきたので、外套の裾に麦の粉がついている。エッダさんに玄関で払われた。


昨夜も森の端で越した。雨の夜は麦わら亭に泊まるが、晴れていれば森のほうが安い。ただ、それだと誰かが俺に用があっても、どこへ来ればいいのか分からない。そのことが、近ごろ少しずつ気になり始めている。


「お名前は」


「ミア」


アルトさんがペンを動かす。紙の上に、くるりと丸い字と、縦に伸びる字が並んだ。


「家の名前……姓は、ありますか」


ミアは膝の上で手を握った。目が、紙のどこでもないところを見ている。


アルトさんは待った。三つ数えるくらい待って、それから、何も書かずに次の欄へペンを移した。


「年は」


「九さい」


「ここへ来る前は、どこにいましたか」


「……ハルネの、院」


「その前は」


「村。おばあちゃんと」


そこで言葉が止まった。村の名前は出てこなかった。アルトさんはまたしばらく待ち、また何も書かなかった。


「ご家族のことで、話せることはありますか」


ミアは首を横に振った。小さく、一度だけ。


「では、ここは空けておきます」


アルトさんの声は、さっきから少しも調子が変わらなかった。ミアが話したときも、話さなかったときも、同じ速さでペンが動いて、同じ速さで止まる。


ミアが顔を上げた。


「空いてるところ、あとで書いてもいい?」


「いつでも。書き足すための紙ですから」


アルトさんは紙を少しミアのほうへ寄せて、下のほうの欄を指した。


「ここからは、預かる家のための欄です。好きな食べ物は」


「皮のかたい、あまいパン」


即答だった。


「外がかりっとしてて、中がふかふかで、上にちょっとお砂糖がのってるのがいいの。お砂糖が焦げてると、もっといい。焦げすぎは、だめ」


アルトさんのペンが、ミアの説明を追いかけて忙しく動いた。どこまで書くのか見ていたら、「焦げすぎはだめ」まできっちり書いていた。


「苦手な食べ物は」


ミアは一瞬だけ口を開けて、閉じた。


「……ない」


エッダさんが、茶を注ぐ手を止めずに、ちらりとミアを見た。何も言わなかった。


*


それから、話は大人の番になった。


アルトさんはもう一枚の紙を出し、エッダさんの前に置いた。一時保護の取り決めだという。期間はひとまず一か月で、その後は見直す。必要な費用は神殿の保護費から出る。アルトさんが週に一度、様子を見に来る。エッダさんは一行ずつ指でたどって読み、二か所について質問し、それから署名した。


最後に、アルトさんは俺のほうを向いた。


「ユウさんの連絡先も、うかがっておきます。助けた方のお話が、あとで要るかもしれないので」


連絡先。俺は少し考えた。


「雨の日は麦わら亭です。晴れの日は……北門の外の、森の端です。昼間なら荷揚げ場にいます。ガストンさんに言ってもらえれば、声が大きいので、たぶん町じゅうに届きます」


アルトさんは真面目な顔のまま、それを全部書いた。覗き込むと、最後の行がやけに長い。


「何て書いたんですか」


「『荷揚げ場、荷役頭ガストン氏に伝言。声が大きい』」


「そこまで書くんですか」


「探す人が迷わないように」


エッダさんが紙の上の行を指でたどって、ため息をついた。


「森の端、なんて書いてある連絡先は、私は初めて見たよ」


責める声ではなかった。ただ、その一行は、たしかに紙の上でいちばん落ち着きが悪かった。


「それと、照会の手紙を出します」


アルトさんが言った。


「ハルネの院へ、ミアさんがいつ、どういう経緯で入ったのか、記録を出してもらいます。院が知っている親族がいれば、その方にも」


俺は思わず口を開いていた。


「本人が話していないことを、こっちで調べていいんですか」


言ってから、責めるような声になったと思った。アルトさんは嫌な顔をしなかった。答えたのは、エッダさんだった。


「この子から無理に聞き出すことはしないよ。それは、この子が話したいときに話すことだからね」


エッダさんは、照会の紙のほうを指で叩いた。


「でも、この子を送り出した院の手続きは、大人が確かめなくちゃいけない。どこで間違って、あんな連中の手に渡ったのか。それを本人に調べさせるわけにはいかないだろう。それに、どこかで誰かが探しているかもしれない。探している人がいるなら、こっちから見つけやすくしておくのも、大人の仕事さ」


ミアが、エッダさんを見た。


「手紙、どこまで行くの?」


「ハルネまで。定期便の馬車で四日です」とアルトさんが答えた。「返事は、早くても半月はかかります」


ミアはうなずいて、それ以上は聞かなかった。手の中で、器の縁をゆっくりなぞっていた。


*


アルトさんは姓の欄も、家族の欄も、空けたまま紙を畳まなかった。


帰り際、アルトさんが記録の紙を乾かしているあいだに、ミアが俺の袖を引いた。


「ユウ、これ」


紙の一番上を指さしている。


「これが、ミア」


丸い字と、縦に伸びる字。二つだけ。


「ここが『ミ』で、ここが『ア』」


俺はかがみこんで、その二つの形を見た。丸いほうは、閉じきらずに尻尾みたいな線が外へ出ている。縦の字は途中で一度だけ右へ折れる。


「覚えた」


「ほんと?」


「たぶん」


ミアは疑わしそうに俺を見て、それから、少し得意そうな顔をした。


次の訪問は四日後の昼過ぎに決まった。玄関で、エッダさんが俺の外套の裾をもう一度払った。粉はさっき全部落としてもらったはずだった。


荷揚げ場へ戻る途中、俺は道端の土に木の枝で丸い字を書いた。尻尾の線を外へ出す。隣に縦の字。途中で一度、右へ。


その隣に、カタカナで「ミア」と書いてみた。こっちなら目をつぶっていても書ける。並べてみると、同じ子の名前なのに、俺の書き慣れた字のほうが、ずいぶん遠い国の字に見えた。


通りかかった荷車の御者が、二種類の落書きを覗いて首をかしげ、そのまま行ってしまった。


合っているかどうかは、四日後に聞けばいい。


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