森の向こうの煙
人を探しに行こう、と決めた翌日は、一日歩いて終わった。
南へ、東へ、また南へ。石の目印を起点に、思いつく方向へ半日ずつ。森はどこまでも森で、途中で川を一本見つけたほかは、木と苔と羊歯しかなかった。道らしいものは獣道だけ。切り株も、焚き火の跡も、人の匂いもない。
夕方、元の場所に戻ってきて、木の根元に座った。
歩くのは嫌いじゃない。前の人生でも、旅先では地図を見ずに路地へ入るのが好きだった。ただ、あの頃はポケットにスマホがあった。迷っても、最後は青い点が現在地を教えてくれた。
ここには青い点がない。
上から見られたらいいのに、と思った。地図アプリの航空写真みたいに。
思ってから、しばらく黙った。
上から。
*
翌朝、俺は一番背の高い木の下に立っていた。
影の帯で石を持ち上げたことがある。重さは影が受け止めていた。だったら、自分の身体は。
影を足元に広げて、自分を乗せてみようとした。うまくいかない。足の裏で影を踏んでいるのに、影が持ち上がると、俺の足だけが置いていかれる。自分で自分を持ち上げようとするのは、靴紐を引っ張って空を飛ぼうとするようなものらしい。
やり方を変えた。
人間の形を作った時、俺は身体の内側をほどいて、思い浮かべた輪郭へ流し込んだ。あの時、身体は重さを持っていなかったわけじゃない。けれど、重さを俺が決めているような感じがした。
だったら、軽く。
風に飛ばされる葉っぱの軽さ。水に浮かぶ時の、背中を誰かに支えられているような感じ。そういうものを、自分の身体の内側に思い浮かべる。
足の裏から、地面の手応えが消えた。
かかとが浮いた。つま先が離れた。気がつくと、俺は苔の上、拳ひとつ分の高さに浮いていた。
「お、お、お」
声が出た。声と一緒に、ぐらりと前に傾いた。慌てて腕を振ると、今度は後ろに傾く。自転車に初めて乗った時のことを思い出した。止まっているほうが難しくて、進んだほうが楽だった。
前に進むつもりで、上へ。
身体がすうっと持ち上がった。苔の高さを越え、羊歯の高さを越え、低い枝の高さを越える。外套の裾が、下から吹き上がる風でばたばたと鳴った。
枝の間を抜けた。葉が顔に当たる。目をつぶって、もう一段上へ。
ぱっと、視界が開けた。
*
森の上に出ていた。
見渡す限り、緑だった。濃い緑、淡い緑、黒に近い緑。木々の頭が波のように重なって、遠くまで続いている。その波の上を、朝の光が滑っていく。風が、地上よりずっと強くて冷たい。
足の下に何もない。
当たり前のことに、急に気づいて、腹の底がひゅっと縮んだ。それから、縮んだ腹の底から、笑いが込み上げてきた。
「すっげえ……!」
飛んでいる。俺が。生身で。
前の人生で、飛行機の窓から雲を見たことはある。展望台から街を見下ろしたこともある。でも、ガラスも床もない場所で、風を全身に受けながら空にいたことは、一度もなかった。
調子に乗って、ぐるりと一回転してみた。景色が回って、どっちが北か分からなくなった。
落ち着いて、もう一度見回す。
太陽の位置で、だいたいの南が分かる。南のほうへ目を凝らすと、森の緑が、遠くでだんだん薄くなっていた。木々の背が低くなって、隙間が増えて、その先に、緑とは違う色が見えた。
黄緑と茶色の、四角い模様。
畑だ。
畑の向こうに、細く白い筋が一本、うねうねと延びている。道だ。その道をさらに辿った先、霞のかかった遠くに、灰色のかたまりが見えた。かたまりの上から、何本もの細い煙が、まっすぐ空に立ち上っていた。
朝の煙だった。誰かが、竈に火を入れている。
「……いた」
声が震えた。
人がいる。畑を耕して、道を通って、朝ごはんを作っている人たちが。
あまり長く浮いていると、そこから降り方を忘れそうで怖かったので、方角を頭に刻んでから、ゆっくり森の中へ下りた。着地で尻もちをついた。降り方は、上り方より難しいらしい。
*
それから一日半、南へ歩いた。
飛んでいけば早いのは分かっていた。でも、空から突然降りてくる男は、どう考えても怪しい。それに、ずっと浮いていられる自信もまだなかった。途中で何度か木の上まで浮いて方角を確かめ、あとは足で進んだ。
森が明るくなり、木の間隔が広がり、やがて切り株が現れた。斧の跡がある。人が木を切った跡だ。俺は切り株の前でしばらく立ち止まって、その断面を指でなぞった。
森を抜けたのは、空を飛んだ翌日の昼過ぎだった。
畑の脇の道を、少し離れた木陰から眺めていると、荷車を押した二人連れがやってきた。日に焼けた中年の男と、若い男。親子だろうか。荷台には、土のついた根菜が積んである。
二人は何か話していた。
聞いたことのない音だった。日本語でも英語でもない。抑揚が違う。音の切れ目が違う。それなのに。
「――だから、北門の市が立つ日に持っていけば、もうちょっと高く売れるって」
「門番のカイ坊に聞いたのか」
「あいつ、帳面ばっかりつけてるからな。何でも知ってる」
意味が、分かった。
耳に入ってくる音は知らない言葉なのに、頭のどこかで、それが意味としてほどけていく。翻訳された字幕を読んでいるのとも違う。知らない音のまま、言っていることだけが、すっと胸に落ちてくる。
俺は木陰で固まっていた。
二人の荷車は、がたごとと遠ざかっていった。北門。市。門番のカイ。単語の意味は分かる。でも、北門がどこにあるのかも、市がどれくらいの規模なのかも、カイ坊がどんな顔なのかも、分からない。
分かるのは、言葉の意味だけだ。
それだけでも、十分すぎた。
*
道に沿って、畑の間を歩いた。
日が傾く頃、道の先に、灰色の壁が見えた。石を積み上げた、俺の背丈の三倍はありそうな壁だ。壁に開いた門に向かって、荷車や、荷物を背負った人や、馬に乗った人が、細い列を作っている。
道から少し外れた丘の上に座って、門の様子を眺めた。
門の脇に、槍を持った男が二人。机の前に座った若い男が一人。入っていく人は、机の前で何か言葉を交わし、若い男が帳面に何かを書きつけて、それから通される。止められている人はいない。荷車の中を覗かれている人はいる。
あれが、帳面ばっかりつけているカイ坊だろうか。
壁の向こうから、煙が立っていた。朝に空から見た、あの煙だ。夕食の支度だろう。風に乗って、何かを焼くような、香ばしい匂いがかすかに届いた。
腹は減っていなかった。それなのに、喉が鳴った。
狐の姿で忍び込むことも、たぶんできる。夜になってから壁を飛び越えることも、たぶんできる。
でも、そうしたくなかった。
俺は人間の姿で、あの列に並びたかった。正面から。名前を言って、帳面に書いてもらって、門をくぐりたかった。
今日はもう遅い。明日の朝、一番に行こう。
丘の上で、外套の前をかき合わせた。門の脇の篝火に、火が入るのが見えた。




