人の形で眠る
人間の姿になった最初の夜、俺は眠るのが怖かった。
目を閉じて、開けたら狐に戻っていたらどうしよう。寝ている間に形がほどけて、朝には池の縁に黒い毛玉が転がっていたら。せっかく作った手が、夢を見ているうちに前足に戻っていたら。
洞はもう、人間の身体には狭すぎた。頭を入れると肩がつかえる。仕方なく、洞のある大木の根元に背中を預けて座った。木の幹は硬くて、ごつごつしていて、寄りかかるには最悪だった。狐の時の、尻尾の布団が恋しい。
眠くはならなかった。この身体は、たぶん眠らなくても平気だ。それでも、眠ってみたかった。人間の形のまま眠って、人間の形のまま起きる。それができなければ、どこにも行けない気がした。
膝を抱えて、目を閉じる。
羊を数えるのは、この前やめたのでやめておいた。代わりに、指を一本ずつ曲げて、伸ばした。右の親指、人差し指、中指。左の親指。
左の薬指あたりで、記憶が途切れた。
*
鳥の声で目が覚めた。
まず、手を見た。
手だった。五本指の、人間の手。膝を抱えたまま、ちゃんと人間の膝の上に乗っている。尻のあたりを触る。尻尾はない。顔を触る。人間の鼻。
「よかった……」
声に出して言ってから、首と腰がばきばきに固まっていることに気づいた。木の根元で座って寝たのだから当然だ。この身体は、眠らなくていいくせに、寝違えはするらしい。理不尽だと思ったが、前の人生でも新幹線で寝ると同じことになっていたので、あまり文句は言えない。
その日から三日間、俺は人間の姿のまま過ごした。
森を歩き、池で顔を洗い、木の実を集め、夜は根元で眠った。二日目の夜は落ち葉を集めて寝床を作った。人間の手でやると、狐の前足の苦労が嘘のように、一抱えで山ができた。三回押して四回逃げられた最初の夜の俺に、見せてやりたい。
形は一度も崩れなかった。
歩き疲れても、考え事をしていても、うたた寝をしても、気がつけば手は手のままで、足は足のままだった。最初のうちは何度も自分の手を確かめていたが、三日目には確かめるのを忘れている時間のほうが長くなった。
リスのほうは、三日たっても慣れなかった。俺が人間の足で木の下を通るたびに、枝の先まで逃げて、そこから尻尾だけをこちらに向けていた。
*
三日目の昼、裸足をやめた。
森を歩くと、足の裏が気になる。痛くはない。この身体は、尖った枝を踏んでも、ちくりとする程度で傷にならない。ただ、人間の格好をして裸足で歩いていると、どうにも落ち着かないのだ。人に会った時にも、たぶん怪しい。
思い浮かべたのは、旅行用に買った革の短靴だった。脱いだり履いたりが楽で、少し歩き込んで柔らかくなった頃の、あの履き心地。
足が、靴に包まれた。
ついでに、黒い外套を一枚。朝晩は冷えるし、と自分に言い訳をしたが、本当は少し格好をつけたかった。森を一人で歩く旅人といえば、外套だ。ゲームでも映画でも、だいたいそうだった。
池に映してみる。
生成りのシャツに焦げ茶のズボン、黒い外套、革の短靴。どこから見ても、地味な旅人だった。地味すぎて、少しがっかりした。もっと派手にもできたのだろうが、思い浮かべる前の人生の服が、全部地味だったのだから仕方がない。
*
その日の夕方、岩のくぼみの前に立った。
葉をめくると、橙色の実は茶色く縮んで、すっかり萎んでいた。七日も置いておけば当然だ。リスが元気なのを確かめているうちに、こちらが駄目になってしまった。
慎重すぎるのも考えものだと、少しだけ思った。
木を見上げる。枝の先には、新しい実がいくつも生っていた。初めて見た時には、影の帯を伸ばして、潰して、逃がして、ようやく一つ取った高さだ。
今は、腕を伸ばせば届く。
背伸びをして、枝を軽く引き寄せる。実の付け根に指をかけて、ちょっとひねる。ぽとりと、手のひらに落ちてきた。
温かかった。夕陽をずっと浴びていたせいだろう。
匂いを嗅ぐ。甘い。リスは今日も、この木で元気に食べていた。いまも枝の先で、俺から一番遠い実を抱えている。
皮を指で剥いて、一口かじった。
酸っぱかった。
思わず目をつぶった。甘い匂いからは想像もできない酸っぱさが舌を刺して、それから遅れて、甘さが追いかけてきた。酸っぱくて、甘い。種のまわりは少し渋い。前の世界の杏とは、やっぱり違う。
目を開けると、枝の先のリスが、俺の顔を見ていた。自分の抱えた実を見て、また俺の顔を見る。それから平気な顔で齧った。リスのほうは、目をつぶらなかった。
二口目をかじった。
食べなくても平気な身体だ。腹はちっとも減っていない。それでも、口の中に広がる味が、嬉しかった。生きるのに要らないものを、どんな味か知りたくて口に入れている。前の人生でも、旅行先の屋台を巡っていた時の俺は、たぶんそういう食べ方をしていた。
最後まで食べて、種を池の脇に埋めた。木になるかどうかは知らない。ただ、そうしたかった。
*
夜、もう一つだけ試した。
狐に戻れるか。
正直に言えば、試すのが怖かった。せっかく人間になれたのに、戻ったきり、もう一度人間になれなかったらどうする。けれど、確かめないまま人のいる場所へ行って、何かの拍子に狐に戻ったら、そのほうがよほど困る。
外套を脱ぐ……つもりで、外套ごと形をほどいた。
目線が、すとんと落ちた。
前足。黒い毛。尻尾が一拍遅れて、背中の後ろでふわりと揺れた。久しぶりの尻尾だ。振り返ると、やっぱり一拍遅れてついてくる。懐かしくて、一周だけ追いかけてしまった。
それから、ずっと気になっていたことを試した。
人間の時、俺は喉の奥で言葉の形を作っていた。舌をどこに置くか、息をどう出すか。あの感覚を、狐の口でもう一度やってみる。
「……あ、ー」
小さかったけれど、言葉の形をしていた。
「ユウ。……おれは、ユウ」
かすれて、高くて、頼りない声だった。それでも「けふ」ではなかった。人間の時に覚えた「話す感じ」を使えば、この口でも言葉が出せるらしい。大きな声は難しい。喉の奥に細い管を通しているような感じで、叫ぼうとすると「けふ」に戻る。
最初の日、この森で叫ばなくてよかった、と今さら思った。叫んでいたら、ずっと「けふ」だった。
人間の形を思い浮かべる。ほどけて、流れて、目線が上がる。
戻れた。手を見る。人間の手。外套もちゃんと肩にある。
*
木の根元に座って、夜の森を眺めた。
誰にも見せていない。誰にも聞かせていない。最初の「あいうえお」も、万歳も、酸っぱい実に目をつぶった顔も。見ていたのは、枝の上のリスくらいだ。そのリスも、狐の俺には三歩先まで来るのに、人間の俺には一度も近寄らなかった。
それが、急に物足りなくなった。
前の人生の俺は、旅行先で美味しいものを食べると、すぐ写真を撮って柴田に送っていた。返事は大抵「うまそう」の一言だった。それでも送っていた。
ここにはスマホがない。柴田もいない。
でも、人はいるかもしれない。この森のどこかに、道があって、家があって、誰かが暮らしているかもしれない。
その誰かに、あの実は酸っぱかったと言ってみたかった。返事は「うまそう」でも構わない。
木の幹に背中を預けて、目を閉じた。今度は、手を確かめなかった。




