二本足の向こう側
右手の次は左手、左手の次は腕、腕の次は肩だった。
二日かかった。肩まで作ると、今度は胴の長さが合わない。狐の胴に人間の肩が乗ると、どうしても首が前に突き出て、鶏のような姿勢になる。水たまりに映った自分を見て、俺は一度、本気で笑った。笑い声は「けけけ」と聞こえた。それもまた笑えた。
部分から積み上げるのは、たぶん向いていない。
三日目の朝、やり方を変えた。
手を作った時、俺は形より先に、使っていた感覚を思い出した。だったら全身も同じだ。立っている感覚。足の裏で地面を押す重さ。背中が伸びる感じ。満員電車でつり革を持った時の、肩から腕にかけての張り。全部まとめて、ひとつの「俺」として思い浮かべる。
洞の前の、平らな地面の上で目を閉じた。
*
身体の内側が、ゆっくりとほどけていく感じがした。
痛くはない。くすぐったくもない。強いて言えば、冷えた手を湯に浸けた時の、じんわりと形がゆるむ感じに近い。ほどけたものが、思い浮かべた輪郭のほうへ流れていく。
目を開けると、地面が遠かった。
狐の目線に慣れていた頭が、急に脚立の上に乗せられたように混乱した。羊歯の葉が膝の下にある。昨日まで傘だったものが、膝の下に。
そう思った瞬間、身体がぐらりと前に傾いた。
慌てて足を出す。二本だ。二本しかない。四本あると思って出した次の足がなくて、一歩目でつんのめりかけた。けれど、二歩目は勝手に出た。三歩目も出た。腕が勝手に前後に振れて、重心を拾い直す。
立っていた。
歩き方を忘れたわけじゃなかった。二十八年使ってきた身体の動かし方は、どこかにちゃんと残っていた。最初の一歩だけが、四本脚の癖に引っ張られて、少しよろけただけだ。
頭の上で、枝が鳴った。
いつものリスが、幹の途中で固まっていた。俺の顔を見て、俺の足元を見て、もう一度顔を見る。それから一声も出さずに、木のてっぺんまで駆け上がっていった。狐の時は、実を抱えて三歩先まで来ていたくせに。
人間は、駄目らしい。
そこで、腰の後ろがすうっと寒くなった。
尻尾がない。
いや、人間には尻尾がないのだから当たり前なのだが、この一週間、俺は振り返るたびにそこにあるものを見てきた。急に何もなくなると、背中の下がやけに心細い。
それから、もう一つのことに思い当たって、俺は一瞬で固まった。
服が、ない。
森の中だ。誰もいない。分かっている。分かっているが、困る。人間の形に戻った途端、人間としての恥ずかしさまで丸ごと戻ってきた。
焦って思い浮かべたのは、休日に着ていた生成りのシャツと、焦げ茶のズボンだった。手を作った時と同じで、形と、肌に触れる感じを一緒に。布が肩に乗る軽さ。ボタンが胸に当たる小さな硬さ。腰回りの、少しだけゆるいズボン。
肌の上に、それが現れた。
見下ろすと、シャツとズボンを着ていた。袖を引っ張ると、布の手触りがする。ちゃんと服だ。たぶん、本物の布とは何かが違うのだろうけれど、今の俺にはそれで十分だった。
足は裸足のままだった。靴まで思い出す余裕がなかった。苔が、足の指の間にやわらかく入り込む。冷たくて、くすぐったい。
*
声を出してみることにした。
息を吸う。胸がふくらむ。狐の時とは違う、広い場所に空気が入っていく感覚。喉に手を当てる。
「――あ」
出た。
かすれていたけれど、確かに「あ」だった。「けふ」でも「こん」でもない、人間の声。
「あ、あー。……あいうえお」
声は思ったより低かった。こんな声だったか、自分ではよく分からない。録音した自分の声を聞いて、毎回「誰だこれ」と思っていたくらいだから、比べようがない。
それでも、口の中で舌がちゃんと居場所を見つけていた。
「さくら、ゆう」
前の人生の名前を言う。言い終わると、喉の奥で何かが小さく鳴った。
「佐倉悠。……ユウ」
最後のほうは、ほとんど独り言だった。家族も友人も、だいたい俺をユウと呼んでいた。母さんは、電話のたびに「ユウ、ちゃんと食べてる?」と聞いた。
森の中で、誰に聞かせるでもなく、自分の名前を呼んだ。それだけなのに、ここに俺がいる、という手触りが、狐の時よりはっきりした。
「ユウ」
もう一度言った。うん。悪くない名前だ。今さら気づいた。
*
石の目印の近くに、小さな池がある。湧き水が窪地に溜まった、鏡のように静かな池だ。最初の日に狐の顔を映したのは別の水たまりだったが、こちらのほうが広い。
二本の足で、池の縁まで歩いた。途中で一度、木の根につまずいた。目線が高いと、足元が遠い。
水面を覗き込む。
男が、こちらを見ていた。
黒い髪。少し伸びて、耳にかかっている。輪郭は、たぶん俺だ。鏡で毎朝見ていた顔に、似ている。似ていると思う。ただ、毎朝見ていたわりには、細かいところに自信がない。眉はこんなにまっすぐだったか。頬はもう少し丸くなかったか。前の人生の顔は、髭を剃りながらぼんやり眺めていたので、正確な記憶がない。
目だけは、はっきり違った。
前は焦げ茶だった目が、青と紫の間の色をしている。狐の時と同じ、夜明け前の空を混ぜたような色。
右手を上げて、頬に触れる。水の中の男も、同じように触れる。指先に、少しざらついた肌の感触。顎の骨の硬さ。鼻の頭。耳。人間の耳だ。動かそうとしても動かない。動かそうとして、頭皮だけがぴくりと動いた。
「……ははっ」
笑いが漏れた。
人間だ。人間の顔だ。人間の手で、人間の顔に触っている。
二本の足で立っている。
膝を叩いた。拍手をした。両手を空に伸ばした。誰もいない森で、二十八歳の男が一人で万歳をしていた。見られたら大変だが、もう、どうでもよかった。
ひとしきり喜んでから、俺は池の縁に座り込んだ。
胸に手を当てる。心臓の音を探す。
鳴っていた。とくん、とくん、と。けれど、それに意識を向けるのをやめると、音がふっと遠くなる。また意識すると、また鳴る。走ってもいないのに、自分で鳴らしているような気がした。
息も、同じだった。止めてみる。十数えても、三十数えても、苦しくならない。六十を過ぎたところで、怖くなってやめた。苦しくないことが、怖かった。
でも、生き返ったわけではない。
心臓の音を自分で探さなきゃいけない身体は、前の人生の身体とは違う。雨の横断歩道で終わったものは、たぶん、終わったままだ。
それは、悲しいと言えば悲しかった。
けれど、膝の上に乗せた両手を見ていると、悲しさだけで頭がいっぱいになることはなかった。指を開いて、閉じる。この手は、今日の朝にはなかった。
池の水面に、指先をつけた。
冷たかった。冷たいと、ちゃんと分かった。
俺は裸足のまま池の縁に座って、その冷たさを長いこと楽しんでいた。




