↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一章 一度目の人生と、四人の子供

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/17

もう一度、この手で

二日経っても、リスは元気だった。


毎朝同じ木に現れて、落ちた橙色の実を抱えて食べ、尻尾を膨らませて枝を走っていく。腹を下している様子はない。少なくとも、俺が屋台の翌日にしていたような顔はしていない。


岩のくぼみの実は、葉の下で少ししなびていた。リスと俺では腹の作りが違うかもしれない。慎重すぎるくらいでちょうどいい、と自分に言い聞かせるのも、この森に来てから何度目か分からない。


石を落としたあの日から、リスは俺のそばで実を食べるとき、必ず一度こちらの足元の影を見る。何も浮いていないのを確かめてから、齧る。


それより、今の俺には試したいことがあった。


*


洞の前の平たい石に座って、目を閉じる。


思い出そうとしているのは、右手だ。


前の人生の、俺の右手。これが案外、思い出せない。二十八年も一緒にいたのに、じっくり見たことがなかった。爪の形はどうだったか。指の関節にしわは何本あったか。手相なんて、生命線がどれかも怪しい。


見た目から思い出すのはやめて、使っていた感覚から辿ることにした。


マグカップの取っ手に指を通す感じ。キーボードの、Fのキーにある小さな突起。スーパーの袋の持ち手が、指の第二関節に食い込む重さ。会社の帰りに自販機で缶コーヒーを買って、熱すぎて左右の手で持ち替えたこと。


そういうものを一つずつ並べていくと、手の形が内側から浮かんでくる気がした。


目を開ける。右前足を持ち上げて、その先に、さっきの感覚を重ねる。


輪郭が揺れた。


一昨日よりも大きく揺れる。黒い毛の前足が、絵の具を水に溶かしたようにぼやけて、伸びて、それから――


ずるり、と、何かが形になった。


手だった。


肌色の、人間の手。手首から先だけが、黒い狐の前足の先に、当たり前のような顔をしてくっついている。


俺はしばらく声も出なかった。出しても「けふ」なので、出さなくて正解だった。


枝の上で、齧る音が止まった。リスが、実を抱えたまま固まっている。黒い前足の先に生えた肌色のものを、瞬きもせずに見ていた。


指を動かそうとする。動かない。


いや、動いている。動いているのだが、自分が動かしている感じがしない。人の手の形をした手袋を、遠くからリモコンで操作しているようだ。握ろうとすると、指がぎこちなく、少し遅れて曲がる。そこだけ尻尾と同じ遅れ方をしている。


試しに石の表面に触れてみた。


何も感じない。冷たいのか、ざらざらしているのか、まったく分からない。押した手応えはあるのに、触った感じがない。見た目だけ作った作り物の手だ。


これでは、物を持っても落とす。


*


一度、手を前足に戻した。戻すのは簡単だった。もとの形に帰るだけだからだ。


もう一度作る。今度は、形より先に、感覚を作るつもりで。


苔の冷たさを思い出す。この森に来て最初に感じたもの。頬の下の、指で押したら水が出そうな冷たさ。あれを、指先に置く。


二回目の手は、形が少し崩れていた。指が妙に太い。けれど、石に触れると、ざらりとした感触が来た。


来すぎた。


石の表面の細かいでこぼこ、冷たさ、その下の土の湿り気まで、一度に指先から流れ込んでくる。痛くはないが、うるさい。音量のつまみを最大にしたイヤホンを耳に押し込まれたようだ。慌てて手を引っ込めたら、手首から先がほどけて、前足に戻った。


三回目は、形と感覚を半分ずつにした。


四回目で、指の太さがだいたい揃った。


五回目で、親指がようやく親指の位置に来た。それまでは、小指の隣に二本目の小指のようなものが生えていたり、親指がやけに長くて蛙の指のようだったりした。自分の手なのに、俺は手の作りをこんなに分かっていなかったのか。


途中で、何の気なしに、できた手で耳の後ろを掻いた。


気持ちよかった。


前足では届かない、あの微妙な場所に、人間の指はするりと届いた。爪の先で、毛の根元をかりかりと。思わず目を細めて、首を傾けて、後ろ脚まで揺らしていた。


狐の前足の先に人間の手が生えた生き物が、苔の上で耳の後ろを掻いて恍惚としている。


ふと見上げると、リスと目が合った。リスは実を一つ抱えたまま、ゆっくり後ずさって、葉の陰に消えた。


この場面は、なかったことにしておく。できればリスにも、そうしてほしい。


*


昼を過ぎた頃には、手を作るのに迷わなくなっていた。


六回目か、七回目。形は、前の人生の右手とたぶん同じではない。爪がやけに綺麗だし、人差し指の脇にあったはずのペンだこもない。それでも、指を一本ずつ曲げて、伸ばして、また曲げる動きが、自分の思った速さについてくる。


地面に落ちている小枝を一本、選んだ。


鉛筆より少し細い、乾いた枝だ。昨日まで、こういうものを持ち上げるには影の器を作るか、口でくわえるしかなかった。口でくわえると、木の皮の味がする。あまり美味しくない。


指を伸ばす。


最初の一回は、力を入れすぎた。ぱきりと乾いた音がして、枝が真ん中で折れた。実を潰した時と同じだ。俺はどうも、何かを掴む時に、本気を出しすぎるらしい。


二本目の枝を拾う。


今度は、指の腹に枝の丸みが当たったところで、それ以上握らないようにした。親指と人差し指と中指で、軽く挟む。木の皮のかすかなでこぼこ。乾いた軽さ。持ち上げると、枝の重みが、指の付け根にほんのわずかにかかった。


落とさなかった。


枝の先で、地面に線を引いてみた。まっすぐ引いたつもりが、ちょっと曲がった。もう一本引いた。今度は、さっきよりまっすぐだった。


それだけのことで、喉の奥が熱くなった。


小枝一本だ。前の人生なら、気にも留めなかった重さだ。会社の書類の山、スーパーの袋、帰省の荷物。俺の右手は毎日、もっとたくさんのものを持っていた。持っていることを、意識もしていなかった。


右手だけで、こうなら。


左手も作れるかもしれない。手が二つあれば、腕も作れるかもしれない。腕があれば、肩も。肩があれば――


そこまで考えて、首を振った。一気に全部はやめておこう。今日は手首から先で精一杯だ。


それでも、考えるのは止められなかった。二本の足で立って、目線が高くなって、誰かと同じ高さで顔を見る。前の人生では当たり前だった、そういう場所に、もう一度。


夕方、岩のくぼみの前に行った。


かぶせておいた葉を、人間の指でつまんで持ち上げる。葉の下で、しなびた橙色の実が待っていた。


指先で、そっと転がす。皮の張りが弱くなって、甘い匂いは前より濃い。リスは今日も元気だった。


俺は実をつまみ上げかけて、元の場所に戻した。右手一本でつまんで食べるのは、片づけを半分で投げ出すみたいで、どうにも落ち着かない。どうせなら、両手が揃ってからがいい。


葉をかぶせ直して振り向くと、枝の上のリスが、実を抱えるのも忘れて、俺の右手だけをじっと見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。