手がなくても、できること
丸は、朝のうちに描けるようになった。
岩の上に落ちた葉の影を、前足の先から伸ばすつもりで動かす。くるりと回して、端と端をくっつける。昨日は卵が転んだような形にしかならなかったのが、十回目あたりで、ちゃんと丸と呼んでいい形になった。
十一回目は星を描こうとして、ヒトデになった。
まあいい。ヒトデも星の仲間だ。たぶん。
影の扱いに慣れてくると、今度は使い道が欲しくなった。丸やヒトデを岩に描いても、誰も褒めてくれない。俺が褒めてやってもいいが、狐の口からは「けふ」しか出ないので、褒め言葉としての力が弱い。
*
使い道は、頭の上にぶら下がっていた。
洞から少し下った斜面に、細い木が一本立っている。枝の先に、親指の先ほどの橙色の実がいくつも生っていた。熟れて落ちたものが根元に転がっていて、近づくと、杏を煮詰めたような甘い匂いがする。
前の世界の杏とは、たぶん違うものだ。分からないものは食べない。それは屋台の一件以来の、俺の大事な決まりだ。
ただ、気になる。気になるものは、手に取ってみたい。手はないけれど。
落ちている実は鳥につつかれて穴だらけだったので、枝に残っている綺麗なものを取ることにした。木は細くて、狐の爪で登れるようには見えない。跳びついても届かない。そこで、影だ。
木の根元から伸びる幹の影を、地面からそっと持ち上げる。昨日は岩の表面を這わせるだけだった影が、意識すると、紐のまま空中へ立ち上がった。黒い帯が、枝のほうへゆらゆらと伸びていく。風に揺れる様子もない。不思議な眺めだった。
帯の先を、実に巻きつける。
ぐしゃ。
橙色の汁が飛んで、甘い匂いが一気に広がった。帯の先には、皮だけになった実の残骸が引っかかっている。
……強すぎた。
握手で相手の手を砕く人みたいになってしまった。そんな人に会ったことはないが。
二つ目は、巻きつける力をうんと弱くした。今度は実が帯の間からするりと抜けて、斜面を転がっていった。追いかけて前足で押さえる。押さえた拍子に、また潰れた。
影のせいにはできない。潰したのは、俺の前足だ。
三つ目に取りかかる前に、少し考えた。掴むから潰れるのだ。掴まずに済む形はないか。
前の人生で、木の実を取る道具を見たことがある。長い竿の先に、小さな籠がついていた。実の下に籠を当てて、ちょっとひねると、ぽとりと籠に落ちる。祖父の家の庭の柿は、あれで取っていた。
影の帯の先を、平たく広げてみる。指を揃えた手のひらのように。それから、縁を少し持ち上げて、浅い器の形にする。
器を実の真下へ持っていき、横から軽く叩く。
実は枝から外れて、黒い器の中に、ころんと収まった。
「けふっ」
成功の声も相変わらずの鳴き声だったが、気分は悪くなかった。器ごと地面まで下ろして、実を苔の上にそっと置く。橙色の皮は傷ひとつなく、朝露に濡れて光っていた。
鼻を近づけると、甘い。とても甘い。
食べない。決まりは決まりだ。
と思っていたら、頭の上の枝がざわっと揺れた。灰色のリスに似た小さな生き物が、幹を駆け下りてきて、落ちていた穴だらけの実を両手で抱え、もしゃもしゃと食べ始めた。こちらをちらっと見て、また食べる。
こいつが二、三日元気だったら、考えよう。
俺は実を岩のくぼみに置いて、葉を一枚かぶせておいた。
*
次に試したのは石だった。
拳くらいの大きさの、角の取れた石。影の器に乗せて、持ち上げる。思ったより軽々と浮いた。重さを感じないわけではない。何かを支えている、という手応えはある。ただ、それが前足や背中にかかってくるのではなく、影のほうで受け止めている感じだった。
調子に乗って、石を自分の目の高さまで浮かべてみた。くるりと回してみる。上下に揺らしてみる。手品師の気分だ。
気がつくと、さっきのリスが幹の途中で止まって、浮いた石を見ていた。首を片方へ傾げ、それから反対へ傾げる。頬が、まだ実でふくらんでいる。
観客がいると分かった途端、俺はもう一回転させた。
そこで、ふっと集中が切れた。
影の器がほどけて、ただの影に戻る。石はまっすぐ落ちて、俺の右前足のすぐ横で、どすっと鈍い音を立てた。
俺は真上に跳んでいた。
四本の脚が同時に地面を離れる跳び方を、自分の身体がするとは思わなかった。着地して、毛を全部逆立てたまま、落ちた石をにらむ。石は何も悪くない。悪いのは、手を離したのを忘れた俺だ。
幹の上では、リスが尻尾を倍の太さにして、木の裏側へ消えていった。観客は、一回転ぶんの拍手もくれなかった。
影は、消せば支えも消える。当たり前と言えば当たり前だ。
だったら逆はどうだろう。
影そのものを、何かに変えられないか。
さっきの実を思い浮かべながら、影を丸めてみた。橙色を思い浮かべて、甘い匂いを思い浮かべて、皮のつるりとした手触りを思い浮かべる。地面の上に、実と同じ大きさの、黒くて丸いものができた。
鼻先でつつく。
何の感触もなかった。鼻が影の中へすっと入って、地面の苔に当たっただけだ。匂いもしない。形が丸いだけの、ただの影だった。
もう少し粘ってみた。もっと硬く、もっと重く、と念じる。影の玉はぎゅっと縮んで、濃くなって、それでも影のままだった。押せば力は返ってくる。けれど、それは影が押し返しているのであって、そこに実が生まれたわけではない。
ないものは、ない。
ちょっと残念だった。影から食べ物が出せたら、それはもう一生食べるのに困らない。いや、困っていないのだけれど。腹が減らないのだから。
困らないのに残念なのは、なんだか損をした気分だ。
*
日が傾きかけた頃、もう一度、器の練習をしていた。
実を取るとき、影の先を手のひらの形に開いた。あれは便利だった。もっと細かく、指の形に分けられないだろうか。
影の先端を、五つに割ってみる。うまくいかない。割れた先がすぐにくっついて、結局は大きなしゃもじのような形に戻ってしまう。指の数を数えようとすると四本だったり六本だったりする。
ああでもない、こうでもないと眺めているうちに、変なことに気がついた。
自分の右前足の輪郭が、揺れている。
影の先を見つめて「指」を思い浮かべるたびに、前足の先、黒い毛の縁が、水面に映った景色のようにふるりと震える。影を見るのをやめると、すぐに元の前足に戻る。もう一度影を見て、指、と思うと、また震える。
俺は前足を目の前に掲げて、じっと見た。
震えている。間違いない。前足の形そのものが、ほんのわずかに迷っている。
影を動かすとき、俺は「自分の前足の先が影へ続いている」と思って動かしていた。もしかすると、影と俺の身体は、思っていたほど別のものではないのかもしれない。俺がどんな形を思い浮かべるかで、影の形が変わる。それと同じように、俺の形も、俺が思い浮かべるものに引っ張られているのかもしれない。
かもしれない、だ。
道具の形と自分の形を、同じだと決めつけるのは早い。石が落ちたときと同じで、思い込みで先へ進むと、たぶん足の横に何かが落ちてくる。
それでも、前足から目が離せなかった。
この黒い前足が、もし、別の形を覚えていたら。
日が沈んで、森の影が全部つながって、夜になった。俺は洞の前に座って、何度も前足を掲げては、揺れる輪郭を眺めた。尻尾が一拍遅れて、ゆっくり左右に振れていた。
岩のくぼみの橙色の実には、葉がかぶさったままだった。




