影が動いた
北の石を越えてしばらく進むと、森の匂いが変わった。
湿った苔の匂いの中に、獣の匂いが混じっている。濃くて、少し酸っぱくて、昨日までの森にはなかったものだ。鼻がそれを嗅ぎ分けた瞬間、首の後ろの毛が勝手に逆立った。
俺の意思ではない。毛のほうが先に怖がっている。
耳を澄ませると、前方の茂みの向こうで、何かが地面を掘り返す音がした。ぶふっ、ぶふっ、と太い鼻息。枝が折れる、乾いた音。
音の大きさから考えると、相手は今の俺よりずっと大きい。
近くに倒れかけた木があって、その根元に低い茂みが張り出していた。俺は身を低くして、その下へ潜り込んだ。枝が背中の毛に引っかかる。尻尾が外にはみ出ていないかと、そっと振り返る。尻尾は一拍遅れて振り返り、茂みの外でふさりと揺れた。
――引っ込め。今それどころじゃない。
尻尾を身体に巻きつけて、息を殺す。
茂みの隙間から、それが見えた。
猪に似ていた。ただし、俺が知っている猪より一回り大きくて、背中には苔のような緑の毛が生えている。牙は下顎から二本、湾曲して伸びていた。名前は分からない。図鑑で見たこともない。分かるのは、あの牙で突かれたら今の俺の身体は簡単に宙を舞うだろう、ということだけだった。
獣は地面を掘りながら、こちらへ近づいてきた。
鼻をひくつかせている。匂いを嗅いでいる。俺の匂いだろうか。風向きはどうだったか。そんなこと、前の人生で一度も気にしたことがない。
見つからないでくれ。
心の中でそう言った。誰に頼んだわけでもない。ただ、ひたすら強く思った。ここにはいない。ここには何もない。ただの茂みの、ただの影だ。
その時、周りが暗くなった。
雲が出たのかと思った。違う。俺の潜り込んだ茂みの下だけが、夜みたいに濃くなっていた。茂みの影が、墨を水に落としたように広がって、俺の身体を覆っていく。前足の黒い毛と、影の黒が溶け合って、どこまでが自分なのか分からなくなった。
獣が茂みの前で止まった。
鼻息が、すぐそこで聞こえた。湿った空気が顔にかかる。俺は瞬きもできなかった。
獣はしばらく鼻を鳴らしていたが、やがて首を傾げるように頭を振って、隣の地面を掘り始めた。そこで何か根っこを見つけたらしく、ぼりぼりと噛み砕く音がして、それからのそのそと東のほうへ去っていった。
足音が完全に聞こえなくなるまで、俺は動かなかった。
ようやく息を吐くと、周りの暗さがすうっと引いていった。茂みの下は、元の普通の影に戻っていた。
*
心臓がまだばくばくしていた。狐の心臓が人間と同じように動いているのかどうか知らないが、とにかくばくばくしていた。
さっきのは、何だ。
偶然、雲がかかったわけじゃない。茂みの外は明るいままだった。影が、俺の「見つからないでくれ」に応えるみたいに濃くなった。
もう一度、できるだろうか。
あの獣が戻ってこない場所まで移動してから試すことにした。来た道を少し戻り、見晴らしのいい岩の上に乗る。周りに大きな動物の匂いがないことを、鼻で三回確かめた。慎重すぎるくらいでちょうどいい。
岩の脇に、背の低い木が一本生えていた。その葉の影が、岩の表面にまだらに落ちている。
俺はその影を見つめた。
――動け。
何も起きない。
もっと強く。動け。動け。動け。
葉の影は、風に揺れて普通に動いた。俺の言うことは聞かずに、風の言うことだけを聞いた。
こういうときは、たぶん名前が必要なんだ。ゲームでも漫画でも、魔法には名前がついていた。俺は息を吸い込み、腹に力を入れて、思い切り叫んだ。
「シャドウ!」
「けふーっ!」
岩の上に、間の抜けた鳴き声が響いた。近くの枝で休んでいた小鳥が、驚いて一斉に飛び立った。
影は、もちろん、ぴくりとも動かなかった。
俺は岩の上に伏せて、しばらく動かなかった。誰も見ていなくて本当に良かった。もし見られていたら、この森で二度と顔を上げて歩けなかった。
*
気を取り直して、さっきの感覚を思い出してみる。
あの時、俺は命令していなかった。名前も呼んでいない。ただ、隠れたい、ここにいたくない、ここには何もないと思ってほしい、と願っていた。影を「動かそう」としていたんじゃない。影の中に「いたい」と思っていた。
だったら。
葉の影を見る。あれを動かすんじゃなく、あそこに手を伸ばすような気持ちで。俺の前足の先が、そのまま影の先へ続いているような気持ちで。
影の縁が、ふるりと震えた。
風はない。葉は揺れていない。それなのに、岩に落ちた影の一部だけが、水面に石を落としたように揺らいだ。
俺は息を止めた。
右へ。そう思うと、影の端がほんの少しだけ右に伸びた。左。今度は左に。葉っぱの形をしていた影が、葉っぱからはみ出して、細い紐のように岩の上を這った。
「けっ……けふっ!」
言葉にならない声が出た。今度は全然恥ずかしくなかった。
動いた。俺が動かした。
紐になった影をくねらせると、それは岩の上を蛇のようにするすると滑った。調子に乗って速く動かすと、影の紐が勢いよく跳ねて、俺の目の前をちょろりと横切った。
反射的に、前足で押さえつけていた。
押さえた前足の下で、影がもぞりと動く。俺が動かしているのだから、俺が動いたと分かっているのに、身体が勝手に飛びかかっていた。もう一度跳ねさせる。また飛びつく。気づけば岩の上で、自分の影の紐を追いかけてぐるぐる回っていた。
三周したところで我に返った。
……狐の身体は、思っていたより狐だ。
息を整えて岩の上に座り直すと、さっきの獣が去っていった東の方角が目に入った。木々の向こうは静かだが、あの大きな牙を思い出すと、今でも首の毛がざわっとする。
影は動く。俺の思った通りに、少しだけなら。
でも、それであの獣に勝てるとは思わなかった。隠れられた。それだけだ。この森には、俺より大きくて強いものがいる。もっと大きくて、もっと強いものもいるのかもしれない。
それでも、昨日の俺より、今日の俺のほうが少しだけ強い。
俺は岩の影に前足を伸ばして、影の先端で小さな丸を描いてみた。歪んだ丸は、すぐに崩れて葉っぱの形に戻っていった。
明日は、もうちょっとうまく描こう。




