帰れないかもしれない夜
目を閉じて、開けたら朝だった。
眠ったのかと聞かれると、自信がない。意識が途切れた感じはしないのに、気づいたら雨音が止んで、洞の入口が白く明るくなっていた。前の人生なら目覚ましを三回止めてからやっと布団を出たのに、今は身体がもう起きている。寝坊という概念ごとどこかに置いてきたらしい。少し寂しい。
洞から顔を出すと、森は洗いたてのように光っていた。葉の先から落ちる水滴が、ひとつ落ちるたびに違う音を立てる。
昨夜の光を探しに行った。
方角は耳が覚えていた。ぬかるんだ斜面を下り、倒木をくぐり、羊歯の海を泳ぐように抜けていくと、苔むした大きな倒木が横たわっていた。
その表面に、指先ほどの小さなきのこがびっしりと生えていた。
朝の光の中では、ただの薄い水色のきのこだった。
……うん。
いや、別に何を期待していたわけでもない。光る石とか、古代遺跡の入口とか、扉に「お帰りはこちら」と書いてあるとか、そういうのを期待していたわけではない。ないのだが、それにしても、きのこだ。俺は倒木の前にお座りをして、きのこと見つめ合った。
鼻を近づけると、雨上がりの土みたいな匂いがした。食べられるかどうかは分からない。分からないものは食べない。それは前の人生で、旅行先の屋台で学んだことだ。あの時は腹を下して二日寝込んだ。
*
その日は一日、目を覚ました場所の周りを歩き回った。
最初に倒れていた苔の上には、俺の身体の形にへこんだ跡が残っているだけだった。周りの木の幹、岩の陰、地面の割れ目。何か「ここから来ました」と言えるものがないかと、鼻と目と耳を使って探した。
何もなかった。
光る輪も、落ちてきた穴も、空に開いた裂け目もない。森はただの森の顔をして、鳥が鳴いて、虫が飛んで、俺がいることなど気にも留めていなかった。
日が高くなった頃、一つだけ試してみたいことを思いついた。
最初に目を覚ました苔の上へ戻って、へこんだ跡にぴったり身体を合わせて伏せる。鼻先の向きも、前足の位置も、たぶんあの時と同じ。それから目を閉じて、雨の横断歩道を思い浮かべた。ゲームなら、ここで「元の世界に戻りますか」と聞かれるところだ。
十数えて、目を開けた。
苔だった。
三十数えて、もう一度開けた。やっぱり苔で、鼻の頭に小さな蟻が一匹乗っていた。蟻は俺の鼻をぐるりと一周して、何事もなかったように降りていった。蟻にとっては、ただの坂だったらしい。
日が傾く頃になって、空腹を感じていないことに気づいた。朝から何も食べていないのに、腹が鳴らない。寒さも、濡れた毛が少し重いと感じる程度で、震えるほどではない。普通の狐ならこうはいかないだろう。普通の狐の事情をよく知っているわけではないが。
試しに、どこまで平気なのか確かめてみようか、とちらりと思った。高いところから飛び降りるとか、冷たい流れにどれだけ浸かっていられるかとか。
思っただけで、やめた。
もし普通に怪我をしたら、手当てしてくれる人はいない。包帯もないし、そもそも包帯を巻く手がない。会社の同僚に「お前は慎重すぎて逆にトラブルを引く」と言われたことがあるが、ここでは慎重すぎるくらいでちょうどいい。
*
夜が来た。
暗くなっても、思ったほど暗くなかった。月は雲に隠れているのに、木の幹の筋も、地面を這う根の形も見える。色は薄くなるけれど、輪郭ははっきりしていた。夜の森が、俺には少しも怖くない形で開いている。
それが妙に落ち着かなくて、洞の中で丸くなった。
眠くならなかった。
昨夜は目を閉じたらいつの間にか朝になっていたのに、今夜は目を閉じても、閉じたまま起きている。羊を数えようとして、羊の顔をよく思い出せないことに気づいた。羊は確か、もっと顔が長い。いや、あれはヤギだったか。考えているうちに、羊とヤギの区別がどんどん怪しくなっていった。
そのうち、考えるつもりのなかったことを考えていた。
週末の帰省。新幹線の切符はもう取ってあった。母さんは、俺が帰ると必ず唐揚げを山ほど作る。もう二十八なんだからそんなに食べないと言っても、毎回同じ量を作る。そして結局、俺はだいたい食べる。
姉には地元にない菓子を頼まれていた。あれは雨の横断歩道で、どこへ行ってしまったんだろう。
大学時代からの友人の柴田には、来月の連休にどこか食べ歩きに行こうと誘われていた。返事は「いいね、また連絡する」で止まっている。また連絡する、と書いた。書いたまま、連絡していない。
あいつ、待ってるかな。
待っていないかもしれない。もう、俺のことを知らせる電話が、誰かのところに行っているのかもしれない。葬式があったのかもしれない。まだ何も起きていないのかもしれない。こちらとあちらの時間が同じ速さで流れているのかどうかすら、俺には分からない。
分からないことを、分からないまま抱えていると、胸の奥が重たくなった。泣き方を思い出そうとしたけれど、狐の目から涙が出るのかどうかも分からなかった。目の奥が熱いような気はする。たぶん、それで足りた。
戻りたい、とはっきり思った。
戻れない、とはまだ思わなかった。思いたくなかったし、確かめてもいなかった。分かっているのは、戻る方法が今のところ一つも見つかっていないということだけだ。
それは「ない」とは違う。違うはずだ。
*
空が白み始めた頃、俺は洞を出た。
一晩中起きていた割に、身体は全然だるくない。だるくないことが、かえって昨夜の重さを置き去りにしていくようで、少しだけ腹が立った。腹を立てたところで、身体は元気なままだった。
最初に倒れていた苔の場所まで行き、その脇に石を置いた。
鼻先で押して運んだ、丸くて白っぽい石だ。一つ置いて、少し離れた北の方角へ、尖った黒い石を置く。東には平たい石。西には、苔のついた石。
ここが始まりの場所。昨日はこの周りを探した。今日は、この石より外を探す。
並べ終えて、俺はしばらくその小さな目印を眺めていた。四つの石は、どう見ても子供の遊びにしか見えなかった。帰り道を探すための大発明には、とても見えない。
それでも、昨日の俺はこれを持っていなかった。
「……よし」
声は、相変わらず「けふ」と鳴っただけだった。
まずは北だ。尖った石の向こうへ、俺は歩き出した。




