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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一章 一度目の人生と、四人の子供

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帰れないかもしれない夜

目を閉じて、開けたら朝だった。


眠ったのかと聞かれると、自信がない。意識が途切れた感じはしないのに、気づいたら雨音が止んで、洞の入口が白く明るくなっていた。前の人生なら目覚ましを三回止めてからやっと布団を出たのに、今は身体がもう起きている。寝坊という概念ごとどこかに置いてきたらしい。少し寂しい。


洞から顔を出すと、森は洗いたてのように光っていた。葉の先から落ちる水滴が、ひとつ落ちるたびに違う音を立てる。


昨夜の光を探しに行った。


方角は耳が覚えていた。ぬかるんだ斜面を下り、倒木をくぐり、羊歯の海を泳ぐように抜けていくと、苔むした大きな倒木が横たわっていた。


その表面に、指先ほどの小さなきのこがびっしりと生えていた。


朝の光の中では、ただの薄い水色のきのこだった。


……うん。


いや、別に何を期待していたわけでもない。光る石とか、古代遺跡の入口とか、扉に「お帰りはこちら」と書いてあるとか、そういうのを期待していたわけではない。ないのだが、それにしても、きのこだ。俺は倒木の前にお座りをして、きのこと見つめ合った。


鼻を近づけると、雨上がりの土みたいな匂いがした。食べられるかどうかは分からない。分からないものは食べない。それは前の人生で、旅行先の屋台で学んだことだ。あの時は腹を下して二日寝込んだ。


*


その日は一日、目を覚ました場所の周りを歩き回った。


最初に倒れていた苔の上には、俺の身体の形にへこんだ跡が残っているだけだった。周りの木の幹、岩の陰、地面の割れ目。何か「ここから来ました」と言えるものがないかと、鼻と目と耳を使って探した。


何もなかった。


光る輪も、落ちてきた穴も、空に開いた裂け目もない。森はただの森の顔をして、鳥が鳴いて、虫が飛んで、俺がいることなど気にも留めていなかった。


日が高くなった頃、一つだけ試してみたいことを思いついた。


最初に目を覚ました苔の上へ戻って、へこんだ跡にぴったり身体を合わせて伏せる。鼻先の向きも、前足の位置も、たぶんあの時と同じ。それから目を閉じて、雨の横断歩道を思い浮かべた。ゲームなら、ここで「元の世界に戻りますか」と聞かれるところだ。


十数えて、目を開けた。


苔だった。


三十数えて、もう一度開けた。やっぱり苔で、鼻の頭に小さな蟻が一匹乗っていた。蟻は俺の鼻をぐるりと一周して、何事もなかったように降りていった。蟻にとっては、ただの坂だったらしい。


日が傾く頃になって、空腹を感じていないことに気づいた。朝から何も食べていないのに、腹が鳴らない。寒さも、濡れた毛が少し重いと感じる程度で、震えるほどではない。普通の狐ならこうはいかないだろう。普通の狐の事情をよく知っているわけではないが。


試しに、どこまで平気なのか確かめてみようか、とちらりと思った。高いところから飛び降りるとか、冷たい流れにどれだけ浸かっていられるかとか。


思っただけで、やめた。


もし普通に怪我をしたら、手当てしてくれる人はいない。包帯もないし、そもそも包帯を巻く手がない。会社の同僚に「お前は慎重すぎて逆にトラブルを引く」と言われたことがあるが、ここでは慎重すぎるくらいでちょうどいい。


*


夜が来た。


暗くなっても、思ったほど暗くなかった。月は雲に隠れているのに、木の幹の筋も、地面を這う根の形も見える。色は薄くなるけれど、輪郭ははっきりしていた。夜の森が、俺には少しも怖くない形で開いている。


それが妙に落ち着かなくて、洞の中で丸くなった。


眠くならなかった。


昨夜は目を閉じたらいつの間にか朝になっていたのに、今夜は目を閉じても、閉じたまま起きている。羊を数えようとして、羊の顔をよく思い出せないことに気づいた。羊は確か、もっと顔が長い。いや、あれはヤギだったか。考えているうちに、羊とヤギの区別がどんどん怪しくなっていった。


そのうち、考えるつもりのなかったことを考えていた。


週末の帰省。新幹線の切符はもう取ってあった。母さんは、俺が帰ると必ず唐揚げを山ほど作る。もう二十八なんだからそんなに食べないと言っても、毎回同じ量を作る。そして結局、俺はだいたい食べる。


姉には地元にない菓子を頼まれていた。あれは雨の横断歩道で、どこへ行ってしまったんだろう。


大学時代からの友人の柴田には、来月の連休にどこか食べ歩きに行こうと誘われていた。返事は「いいね、また連絡する」で止まっている。また連絡する、と書いた。書いたまま、連絡していない。


あいつ、待ってるかな。


待っていないかもしれない。もう、俺のことを知らせる電話が、誰かのところに行っているのかもしれない。葬式があったのかもしれない。まだ何も起きていないのかもしれない。こちらとあちらの時間が同じ速さで流れているのかどうかすら、俺には分からない。


分からないことを、分からないまま抱えていると、胸の奥が重たくなった。泣き方を思い出そうとしたけれど、狐の目から涙が出るのかどうかも分からなかった。目の奥が熱いような気はする。たぶん、それで足りた。


戻りたい、とはっきり思った。


戻れない、とはまだ思わなかった。思いたくなかったし、確かめてもいなかった。分かっているのは、戻る方法が今のところ一つも見つかっていないということだけだ。


それは「ない」とは違う。違うはずだ。


*


空が白み始めた頃、俺は洞を出た。


一晩中起きていた割に、身体は全然だるくない。だるくないことが、かえって昨夜の重さを置き去りにしていくようで、少しだけ腹が立った。腹を立てたところで、身体は元気なままだった。


最初に倒れていた苔の場所まで行き、その脇に石を置いた。


鼻先で押して運んだ、丸くて白っぽい石だ。一つ置いて、少し離れた北の方角へ、尖った黒い石を置く。東には平たい石。西には、苔のついた石。


ここが始まりの場所。昨日はこの周りを探した。今日は、この石より外を探す。


並べ終えて、俺はしばらくその小さな目印を眺めていた。四つの石は、どう見ても子供の遊びにしか見えなかった。帰り道を探すための大発明には、とても見えない。


それでも、昨日の俺はこれを持っていなかった。


「……よし」


声は、相変わらず「けふ」と鳴っただけだった。


まずは北だ。尖った石の向こうへ、俺は歩き出した。


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