目が覚めたら、狐になっていた
少女ミアとの出会いは第12話です。それまでは、黒い狐になった俺が、この体でできることを一つずつ試していきます。初日は第12話までまとめて公開しています。
頬の下が冷たかった。
湿った布団、ではない。もっと細かくて、指で押したらじわっと水が出てきそうな冷たさだ。目を開けると、緑色の毛布みたいなものが視界いっぱいに広がっていた。苔だ。鼻先が苔に埋まっている。
なんで俺は苔に顔をつけて寝ているんだ。
起き上がろうとして、床に手をついた。ついた、つもりだった。視界の端に入ってきたのは、黒い毛に覆われた細い棒のようなもので、先に小さな丸い肉球がついていた。
俺は、その棒をしばらく眺めた。
棒も、俺を眺め返している気がした。いや、棒に目はない。動かそうと思うと、棒が動く。苔を押すと、肉球の裏に冷たさが伝わる。もう一本、同じものが隣にある。
前足だ。
「――え」
と言ったつもりだった。喉から出たのは「けっ」とも「こん」ともつかない、短くて高い音だった。自分の声に驚いて、もう一度言おうとしたら「けふっ」と変な咳みたいな音が出た。舌の置き場所が分からない。口の中が前より長い。
落ち着け。こういうときは、とりあえず身体を起こす。会社の避難訓練でもそう習った気がする。習っていない気もする。
前足に力を入れると、思っていたより簡単に上半身が持ち上がった。目線が低い。とんでもなく低い。苔の上の小石が岩みたいに大きく見えるし、羊歯の葉が頭の上で傘になっている。後ろ脚を引き寄せると、腰のあたりで何かがふわりと揺れた。
振り返る。
黒くて、太くて、毛がたっぷりした尻尾が、少し遅れてこちらを向いた。
俺が振り返ったから、尻尾も振り返ったらしい。俺が止まると、尻尾は一拍遅れて止まった。もう一度首を回すと、また一拍遅れてついてくる。追いかけるつもりはなかったのに、気づいたら同じ場所でくるりと一回転していた。
……いや、何をやっているんだ俺は。
立ち止まって、深く息を吸う。土と、濡れた葉と、甘いような青臭いような匂いが一度に鼻へ入ってきた。匂いが多すぎる。前の人生で嗅いでいた世界は、たぶん、ずいぶん薄めて売られていた。
叫ぶのはやめておいた。どこだか分からない森で、どこの誰に聞こえるか分からない声を出すのは良くない。熊がいるかもしれないし、熊より困るものがいるかもしれない。まずは水と、雨をしのげる場所だ。空を見上げると、木々の切れ間に灰色の雲が溜まっていた。
*
水の音を探すのは、拍子抜けするほど簡単だった。
耳を向けると、右手のほうから細い流れの音が聞こえる。耳を「向ける」という動作ができることに、自分で少し感心した。頭を動かさなくても、耳だけがそっちへ回るのだ。便利だ。会議中に後ろの席の雑談を拾うのに使えそうだ。もう会議はないけれど。
羊歯をかき分けて進むと、岩の間から湧いた水が小さな溜まりを作っていた。透き通っていて、底の砂粒まで見える。喉が渇いているのかどうか、よく分からなかった。それでも水面に顔を近づけた。
黒い狐がいた。
尖った耳。細い鼻先。濡れたような黒い毛並みに、目だけが不思議な色をしていた。紫と青のあいだのような、夜明け前の空を少しだけ混ぜたような色だ。
俺が右耳を動かすと、水の中の狐も右耳を動かした。口を開けると、向こうも開けた。舌が思ったより長くて、少しへこんだ。
「夢、か」
今度もちゃんとした言葉にはならなかった。きゅう、と情けない音が水面を揺らしただけだ。
夢にしては、冷たさがはっきりしすぎている。前足を水に入れると、指の間の毛が水を吸って重くなった。夢の中で毛が濡れて重くなる経験は、たぶんしたことがない。
そう思ったとき、音がよみがえった。
雨の夜。横断歩道の白線。スーパーの袋の持ち手が指に食い込んでいた。袋の中には、週末の帰省で実家に持っていく缶ビールと、姉に頼まれていた地元にない菓子が入っていた。信号は青だった。それは確かだ。右側から、聞いたことのない大きさのブレーキ音がした。
そこで、記憶はぷつりと切れている。
痛みも、救急車のサイレンも覚えていない。覚えていないことが、少しだけありがたかった。
俺は――佐倉悠は、たぶんあそこで死んだのだろう。
そして今、どこかの森で、黒い狐の顔をして水を覗いている。その間に何があったのかは、どれだけ水面を見つめても分からなかった。神様らしき人も出てこないし、説明の書かれた看板も立っていない。水溜まりの縁を、小さな甲虫が忙しそうに歩いていくだけだ。
お前は知らないよな、と虫に聞いてみたくなって、やめた。返事が来たらそれはそれで怖い。
*
ぽつり、と鼻先に冷たいものが落ちた。
見上げると、さっきより雲が低い。考えるのは後にしよう。どうしてこうなったかを解き明かすより先に、今この身体をずぶ濡れにしないほうが大事だ。生前の俺がどうなったにせよ、今いる俺は、ここにいる。
濡れた苔の上を歩いて、雨宿りできそうな場所を探した。四本の脚で歩くのは、意外にも難しくなかった。考えずに進めば身体が勝手に脚を順番に出してくれる。考えた瞬間に、右前と右後ろを同時に出して転びかけた。考えないほうがいいらしい。人生でこれほど「考えるな」と言われている気がしたことはない。
大きな木の根元に、根と根が絡まって洞のようになった隙間を見つけた。中は乾いていて、枯れ葉が溜まっている。入口が狭くて、奥は俺の今の身体がちょうど丸くなれるくらいだった。
前足で枯れ葉をかき寄せようとして、苦戦した。手なら一回で掴めるものが、前足だと横へ押すことしかできない。押すと、葉は必ず思っていたのと反対側へ逃げる。三回押して、四回逃げられた。数が合わないのは、俺の押し方が下手なせいで一枚よけいに飛んだからだ。
結局、鼻先で押して、身体で踏んで、なんとか寝床らしい形にした。見た目は鳥の巣を雑に真似した何かだったが、座ってみると温かかった。
外では雨が本格的に降り始めた。葉を叩く音が、一枚一枚違う高さで聞こえる。前の世界の雨より、音の粒が細かい。耳がいいとこういうことになるのか。
丸くなると、尻尾が自然に鼻先へかぶさってきた。ふわふわしていて、少し土の匂いがする。自分の尻尾を布団にするのは、悪くなかった。むしろかなり良かった。ここだけは素直に認めておく。
帰省、行けなかったな。
ふと思って、胸の奥がきゅっと縮んだ。その縮みをどうにかする方法は、今のところ一つも思いつかない。だから、尻尾にもう少し深く顔を埋めた。
洞の入口から、雨に煙る森が見える。その奥、木々のずっと向こうで、何かがぼんやりと光っていた。
青白くて、蛍よりも大きくて、揺れもしない光だ。
雨のなかでも消えないそれを、俺はしばらく見ていた。怖いのか、気になるのか、自分でもよく分からない。ただ、耳だけは勝手にそっちを向いていた。
洞の暗がりが、丸くなった俺のまわりでだけ、ほんの少し濃い気がした。
尻尾の先を鼻の上に引き寄せて、目を閉じた。遠くの光のほうへ向いたままの耳が、最後まで雨の粒を数えていた。




