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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第二章 会いに行く場所

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読めない贈り物

その本を見つけたのは、市場の外れの紙屋の露台だった。


紙屋といっても、新しい紙だけを売っているわけではない。帳面の切れ端、古い暦、角の擦り切れた本が、木箱の中にごちゃっと詰め込まれている。荷揚げの帰りに通りかかって、何となく覗いたのがいけなかった。


一番上に、薄い本が載っていた。


表紙に、はりねずみが描いてある。落ち葉の山から鼻先だけ出して、こちらを見上げている。版木で刷ったらしい素朴な線なのに、鼻の湿り気まで伝わってきそうだった。


めくると、中にもいた。兎の親子が草むらで耳を立てている。梟が枝の上で片目だけ開けている。鹿が川を渡り、栗鼠が頬袋をぱんぱんにして、どの頁でも動物たちが自分の一日を生きていた。


ミアが見たら、絶対に喜ぶ。


その確信が、頭の中で一瞬で立ち上がった。


「初歩の絵本だよ。子供の読み聞かせにちょうどいい」


露台の向こうから、紙屋の親父が言った。


「二十四銅貨。角を鼠がかじってるから、その分は引いてある」


裏表紙を見ると、確かに角がぎざぎざになっていた。鼠も、この絵を気に入ったのかもしれない。


小銭袋の中身を思い浮かべる。部屋を借りてから四日。荷運びを続けて、六十枚と少し。払えない額ではない。払ったら、また少し寂しくなる額だ。


「……ください」


「読み聞かせかい?」


「はい」


答えてから、絵の下に並ぶ文字を見た。


一つも読めなかった。


いや、正確には、頁の隅の数字だけは分かる。値札で覚えたからだ。それ以外は、細い線が曲がったり跳ねたりしている模様にしか見えない。


読み聞かせかい、はい、と俺は言った。誰が読むんだ。


*


その日の午後、エッダさんの家の居間で、俺は本をミアに渡した。


「絵がいいと思って買った。でも、ごめん。俺は字が読めないから、読んでやれない」


先に白状しておいた。後でばれるより、ずっといい。


ミアは表紙のはりねずみを見て、息を吸い込んだまま止まった。それから、そうっと一頁目を開いた。


「はりねずみ……」


指が絵の下の文字に伸びる。一文字ずつ、なぞるように進んでいく。


「はりねずみの、かぞくは、おちばの、したに、すんで、います」


俺は思わず、ミアの横顔を見た。


ミアが自分の名前を書けるのは知っていた。前に、アルトさんの記録の紙で教わったし、俺の書いた『ミ』のしっぽが長すぎると直されたこともある。でも、名前を書けることと、本の文を読めることは、俺の中ではずいぶん離れていた。


ゆっくりだったけれど、つかえていない。字の上を進む指が、迷っていない。


「読めるのか」


「かんたんなのは、読める」


ミアは当たり前のことのように言って、次の頁をめくった。兎の親子。


「うさぎの、おかあさんは、みみを、たてて……たてて、えっと」


そこで指が止まった。次の言葉が長い。ミアは眉を寄せて、口の中で何度か音を作ってみてから、首を振った。


「これは、わかんない」


窓際の机で手紙の清書をしていたエッダさんが、顔を上げた。ミアが本を持っていくと、エッダさんは一目見て言った。


「見張り。『みみをたてて、見張りをします』」


「みはり」


ミアは繰り返して、その字の形をじっと見た。エッダさんはそれ以上は口を挟まず、ペンを持ち直して清書に戻った。


ミアが俺の隣に戻ってきて、本を膝に置いたまま言った。


「ユウ、字、ほかは読めないの?」


「ミアの名前と、数字が少し」


「それだけ?」


「それだけ」


ミアは目を丸くした。大人が本を読めないということを、今まであまり考えたことがなかったのかもしれない。笑われるかと思ったが、ミアは笑わなかった。代わりに、棚の上から、教室で使っている石板と白墨を持ってきた。


「じゃあ、おしえてあげる」


*


ミアは石板を膝に乗せて、俺のほうへ向けた。


「まず、ユウの名前。名前が書けると、べんりなの」


白墨が石板の上を滑る。二つの字が並んだ。最初の字は縦の線から始まって、二つ目の字は途中でくるんと丸まり、最後に右へ跳ねている。


「これで、ユウ」


これが、俺の名前。


この世界に来て、何十日も経った。名前は何度も口で言った。門番のカイにも、荷役頭のガストンさんにも、トマさんにも、エッダさんにも。ミアの名前は字で覚えたのに、自分の名前を字で見るのは初めてだった。


あの雨の夜、待避所で手にした紙を思い出した。子供たちを運ぶための契約書だったと、後でアルトさんから聞いた。俺はあの紙を何度も眺めて、何が書いてあるのか一文字も分からなかった。分からないまま、アルトさんに渡すしかなかった。


今、膝の上の石板にあるのは、俺の名前だ。


「ユウも書いて」


白墨を渡された。


縦の線を一本。ここまでは簡単だ。二つ目の字のくるん、を真似しようとして、力が入りすぎた。丸がつぶれて、跳ねが石板の端まで飛び出した。


ミアが覗き込んで、真剣な顔で言った。


「また、のびてる」


また、と言われた。『ミ』のときと同じだ。どうやら俺には、字の端を伸ばしたくなる癖があるらしい。前の人生で、署名の最後をやたらと払っていた覚えはない。


もう一度書く。今度は伸ばすまいと気をつけすぎて、くるんがただの小さな丸になった。


「それ、ボタン」


「ボタン」


「ボタンみたい。服にはつくけど、字じゃない」


「難しいな」


「わたしも、最初はむずかしかった」


ミアはそう言って、俺の手の上に自分の手を重ねるでもなく、隣で同じ字を空中に指で書いてみせた。ゆっくり、くるん、ふわ。


「ゆっくり書くの。わたしも、ゆっくり教えてもらったから」


誰に教えてもらったのかは、言わなかった。俺も聞かなかった。


三回目で、ようやくそれらしい形になった。跳ねはまだ長めだが、ミアは石板を傾けて眺めてから、うなずいた。


「うん。ユウ」


それから、俺の書いた字の隣に、自分で二つの字を書いた。尻尾を外へ出した丸い字と、途中で一度だけ右へ折れる縦の字。


「これは、ミア」


「それは知ってる」


「知ってるけど、ならべたいの」


石板の上に、二つの名前が並んだ。ミアの字はきれいに揃っていて、俺の字は跳ねが長くて少し傾いている。並べると、どっちが先生かすぐ分かる。


「ありがとう、先生」


言ったとたん、ミアの耳が赤くなった。


「せんせいじゃないよ」


そう言いながら、背中がすっと伸びた。


それからミアは本を開き直して、はりねずみの頁から、指で文字をなぞって読み始めた。俺はその指を目で追った。読めない字の上を、読める子の指が進んでいく。分からない字のところで指が止まると、二人で顔を見合わせて、エッダさんの机へ持っていった。


最後の頁まで読み終えたのは、日が傾きかけた頃だった。


「この本、ユウのでしょ」


「ミアにあげるつもりで買った」


ミアは本を胸に抱えて、表紙のはりねずみとしばらく目を合わせた。


「じゃあ、ここに置いとく。ユウが来たときに、いっしょに読むの」


本は、居間の棚の、石板の隣に立てられた。


帰り道、部屋に戻って、机の上の埃を指でなぞった。縦の線を一本。くるん、ふわ。


跳ねが、また少し長かった。


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