パン屋のノア
神殿の初等教室は、本堂の裏の細長い部屋で開かれている。
その日はミアの、初めての見学の日だった。
俺は朝のうちに荷揚げ場で半日分の荷運びを済ませ、昼の鐘が鳴る少し前に神殿の裏門へ着いた。帰り道を一緒に歩いていい、とエッダさんから許可をもらっている。門の脇の石段では、エッダさんがもう待っていた。手には編みかけの何かを持っている。待つのに慣れた人の持ち物だ。
「どうでした」
「さあ。私は廊下にいたからね。窓から見えたのは、後ろの席で背中をまっすぐにしているところだけ」
「まっすぐ」
「まっすぐすぎて、隣の子が真似してたよ」
鐘が鳴った。
教室の扉が開いて、子供たちがばらばらと出てくる。七、八人だろうか。年もばらばらで、ミアより小さい子もいれば、ベンくらいの背丈の子もいる。最後のほうから、ミアが出てきた。両手で板の小さな石板を抱えて、まだ少し肩に力が入っている。
それから俺たちを見つけて、肩の力が抜けた。
「ハンナ先生、声がおっきかった」
第一声がそれだった。
「でも、こわくないおっきさ。廊下の向こうまで聞こえるのに、こわくないの」
「それは大事だな」
「うん。大事」
ミアは石板を胸に抱え直して、何度かうなずいた。字を書いた跡が、うっすら白く残っている。何を書いたのかは、まだ俺には読めない。
*
帰り道は市場の角を通る。
六柱の小祠の前を過ぎたところに、パン屋がある。俺がこの町で初めて銅貨を稼いだ日、店主が出がけに祠へ礼をしていた、あの店だ。焼きたての匂いが通りまで流れてきて、俺の鼻はたぶん、ミアより先にそっちを向いた。
店の前を通りかかったとき、中から女の子が飛び出してきた。
ミアより少し背が高い。麦の穂みたいな色の髪を後ろで一つに縛っていて、前掛けに粉がついている。
「あ。さっきの、後ろの席の子でしょ」
ミアが足を止めた。半歩だけエッダさんの陰に寄って、それから、自分で半歩戻った。
「……うん」
「あたし、ノア。ここ、あたしの家。ねえ、ねじりパン食べたことある? うちのねじりパン、町でいちばんおいしいんだよ。父さんが朝いちばんに焼くの。蜂蜜を塗ってあるから、つやつやしてるの」
息継ぎがどこにあったのか分からなかった。
店の奥で、髭の店主がこちらに軽く頭を下げた。娘がすみません、という顔だった。
ノアは棚を指さした。細長い生地を二本ねじり合わせた、艶のあるパンが並んでいる。隣の籠には、丸くて皮の厚い、こんがりしたパンが積んであった。
ミアの目が、ねじりパンではなく、丸いほうに吸い寄せられた。
「わたし、こっちが好き」
「えー。そっちは皮が固いよ」
「固いのがおいしいの」
「パンは中がふわふわなのがおいしいんだよ。皮なんて、外側じゃん」
「外側がいちばんおいしいの」
ミアの声が、さっきより一段はっきりした。
俺はエッダさんと目を合わせた。エッダさんは何も言わず、店の壁に貼られた値段表を眺めるふりをしていた。
「ねじりのほうが、どこ食べても味が違って楽しいもん」
「丸いのは、どこ食べてもおいしいもん」
「中まで固いじゃん」
「中はやわらかいもん。ちぎったら、湯気が出るもん」
二人がそろって、こっちを向いた。
「ユウは、どっち?」
「おじさん、どっち?」
おじさん。
俺は外見二十八歳で、前の人生でも二十八歳だった。十歳の子から見ればおじさんで間違いない。間違いないのだが、初対面で迷いなく言われると、思ったより刺さる。
「……どっちも好きだ」
「ずるい」
「ずるーい」
完全に声がそろった。さっきまで張り合っていた二人が、一瞬で同じ陣営に立っている。受発注の仕事で、営業と工場の板挟みになったときより、ずっと早い寝返りだった。
仕方がないので、俺は両方買った。ねじりパンが四銅貨、丸パンが三銅貨。店主が紙に包んでくれた。エッダさんもミアの分の丸パンを一つ買って、ミアに持たせた。
店の前で、俺は二つをちぎって食べ比べさせられた。
ねじりパンは、蜂蜜の甘さが歯に先に来て、中は本当にふわふわだった。丸パンは、皮を噛むとぱりっと音がして、香ばしさの後から中のやわらかさがついてくる。
「どっち」
「どっち」
二人が身を乗り出してくる。
「ねじりパンの……端っこの、焦げて固くなってるところが、いちばんうまい」
ノアが勝ち誇った顔をした。ミアも勝ち誇った顔をした。
「ほら、ねじりがいちばんだって」
「ほら、固いところがいちばんだって」
どちらも自分が勝ったと思っている。それなら平和でいい。
*
ノアは店の柱にもたれて、ミアの丸パンを横目で見た。
「ほんとはね、あたし、いちばん食べたいのはここのパンじゃないの」
「そうなの?」
「ルアの市に、星の形の焼き菓子があるんだって。粉に木の実が入ってて、さくさくするの。父さんは作り方知らないって。いつか大きくなったら、ルアまで行って食べるの」
ミアが顔を上げた。
「ロッタ、ルアに行ったよ」
「ロッタって誰?」
「友だち。おばさんのおうちに、帰ったの。この前」
ミアはそれ以上を言わなかった。ノアも、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、そのロッタにお手紙書いて、星のお菓子、どんな味か聞いてよ」
「ロッタ、まだ字があんまり書けないの」
「じゃあ絵でいいよ。絵で味、描いてもらって」
味を絵で描く方法は俺にも分からなかったが、ミアは真剣に考え込んでいた。
俺とエッダさんは店の前を少し離れて、通りの端で待った。子供二人の話に、大人が首を突っ込む場面ではない気がした。エッダさんも同じ考えだったらしく、編みかけの何かをまた取り出していた。
「次の教室、いつ来るの?」
ノアの声が聞こえる。
「三日あと」
「じゃあ、あたしの隣ね。後ろから二番目の、窓のとこ。席、取っとく」
「取っとけるの?」
「ハンナ先生が来る前に座っちゃえば、取れる」
「……取っといて」
ミアは丸パンを両手で持ったまま、小さくうなずいた。
帰り道、坂の途中で、ミアがエッダさんの袖を引いた。
「三日あとも、見学でいい?」
「いいよ」
「ノアの隣、取ってあるから」
それから、ミアは手の中の丸パンを少しだけちぎって、俺に差し出した。
「ユウ。皮のとこ」
いちばんおいしいところだそうだ。ありがたく受け取った。




