借りた部屋の窓
桶屋のドルフは、一言もしゃべらない人だった。
職人通りの中ほど、トマ薬種店から通りを四軒下ったところに、その桶屋はある。店先には大小の桶が積み上がり、奥からは鉋の音がしゃっ、しゃっと規則正しく聞こえてくる。二階に空き部屋があると教えてくれたのはトマさんだった。「静かな男だ。家賃を遅らせなければ、何も言わない」と。
本当に何も言わなかった。
「二階の部屋を貸していただけると聞いて、来ました。ユウといいます」
ドルフは鉋を置いて、俺の顔を見た。木屑が眉毛にまで乗っている。それから指を一本立てて、天井を指した。二階、という意味だろう。
狭い階段を上がると、部屋は思っていたより明るかった。
寝台が一つ。藁を詰めた敷布団が乗っている。小さな机と、壁に打たれた釘が三本。窓は通りに面していて、向かいの屋根と、その向こうに並ぶ煙突がいくつも見えた。煙突の一本から、薄い煙がまっすぐ上っている。
ドルフが窓を指さし、それから自分の鼻をつまんで、首を横に振った。
しばらく考えて、分かった。たぶん、向かいは膠を煮る工房ではないから臭くない、という意味だ。たぶん。違っていたら、それはそれで覚悟しておこう。
「ひと月、百二十銅貨でよかったですか」
ドルフはうなずいて、両手の指を十本立て、それを一回、二回、と数えるように振った。最後に二本だけ立てる。百二十。合っている。
下へ戻って、店の作業台の端を借り、腰の内側に結びつけていた麻の小袋をほどいた。
部屋代の袋だ。トマさんに初めて葉を買ってもらった日に百枚を移して、それから荷運びと納品の分を少しずつ足してきた。毎晩、麦わら亭の共同寝所で数えては、また口を縛っていた。数えたところで増えないのは分かっているのに、数えるとなんだか増えた気がする。前の人生で給料明細を何度も見返していたのと同じ病気だ。
十枚ずつ積んで、十二山。作業台の上に、銅色の小さな塔が並んだ。
ドルフはその塔を一つずつ指で崩し、自分で数え直した。全部数え終わるまで一言もしゃべらない。俺も何も言わなかった。鉋の音が止まった店の中で、銅貨の触れ合う音だけがしていた。
最後の一枚を数えたドルフは、引き出しから鍵を一本出して、俺の手のひらに乗せた。続けて薄い木の札を一枚出し、竈の火で焼いた鏝を押し当てた。じゅっ、と音がして、札に桶の形の焼き印がついた。家賃を受け取った印らしい。字の代わりに桶。分かりやすい。
それから少し考えて、棚から短いろうそくを一本取り、鍵と札の横に置いた。
「ありがとうございます」
ドルフはうなずいて、鉋に戻った。
俺は鍵とろうそくを握ったまま、しばらく突っ立っていた。夜目が利くので、俺には明かりがほとんど要らない。でも、それを説明するのも妙だし、くれたものを返すのはもっと妙だ。ありがたく貰っておくことにした。
部屋代の袋は空になった。腰の財布のほうには、三十二枚が残っている。
共同寝所は一晩六銅貨。この部屋は一月百二十だから、一日あたり四銅貨になる。前より安いうえに、隣の寝台からいびきが聞こえてこない。受発注の仕事をしていた頃の頭が、勝手にそんな計算をして、勝手に満足していた。
*
荷物を運ぶのに、往復はいらなかった。
腰の袋の中身は、トマさんの店で最初に買った見本袋と、葉を束ねる麻紐の残りと、空になった部屋代の小袋。あとは、荷揚げ場の倉の軒に吊るさせてもらっていた銀葉草が三束。麦わら亭の帳場の親父に挨拶をすると、「狭い部屋でも、自分の鍵があるのはいいもんだよ」と言われた。ガストンさんには「軒が広くなったな!」と、たぶん喜ばれた。
部屋に戻って、物を置いていく。
見本袋は机の上。釘と釘の間に麻紐を渡して、銀葉草を逆さに吊るす。窓から入る風が、葉の白い裏をかすかに揺らした。これでもう、倉の軒を借りなくていい。焼き印の札は、机の引き出しにしまった。
それから、見本袋の底から小さな包みを出した。
森で拾った白い羽根と、親指ほどの小さな松かさ。採集の帰りに目について、何となく袋に入れていたものだ。役に立つわけではない。売れもしない。羽根は窓枠の隙間に挿して、松かさは机の角に置いた。
置いてから、部屋をぐるりと見回した。
殺風景だった。
吊るした葉は仕事のためのもので、羽根と松かさはたまたま拾ったものだ。ここは俺の部屋なのだから、俺が欲しくて置くものが一つくらいあってもいい。
じゃあ俺は何が欲しいんだろう、と考えたら、すぐには出てこなかった。前の人生の部屋には、欲しくて買ったものが山ほどあった。ゲーム機、旅先の妙な置物、使わないのに揃えた皿。今は、そのどれも思い浮かばない。
結局、もう一度外へ出て、市場の陶器屋の前で足を止めて、木の椀を一つ買った。二銅貨。素焼きの鉢と迷ったが、椀なら湯を飲むにもスープを買って帰るにも使える。手に持つと、木目の筋が指にちょうど引っかかる。
窓辺に置くと、夕方の光が椀の縁に当たって、そこだけ蜂蜜みたいな色になった。
残り三十枚。
*
エッダさんの家を訪ねたのは、その日の夕方、いつもの許可された時間だった。
「ユウのおへや、どんなの?」
庭の梨の木の下で、ミアに聞かれた。エッダさんから聞いていたらしい。
「窓から煙突がいっぱい見える」
「いっぱいって、何本?」
「数えてない」
「数えて」
即答だった。次に会うときまでの宿題が一つ増えた。
「ベッドは? きつねさんになっても、寝られる?」
「寝られる。広すぎるくらいだ」
「ふうん」
ミアは何かを考えている顔をした。それから、台所の窓のほうをちらりと見た。窓の中でエッダさんが繕い物をしている。
「いつか、見に行ってもいい?」
聞いたのは俺にではなく、エッダさんにだった。
エッダさんは針を動かす手を止めずに答えた。
「いつかね。私と一緒に、明るいうちに」
「うん」
ミアは素直にうなずいて、それからもう一度俺を見た。
「煙突、ちゃんと数えてね」
「分かった」
帰り道、職人通りに戻ると、桶屋の店先はもう閉まっていた。裏口の鍵を回し、狭い階段を上がる。
扉を開けると、部屋は暗かった。俺の目には、机の上の松かさの鱗まで見えている。
それでも、ドルフにもらったろうそくに火をつけた。
小さな炎が揺れて、窓辺の木の椀と、窓枠に挿した羽根の影を壁に伸ばした。明かりなんて要らないはずなのに、点けると、部屋がちゃんと人の住むところの顔になった。
窓の外を見る。
煙突は、十一本あった。一本は数えているうちに煙が止まって、本当に煙突なのか自信がなくなった。十一本と半分、ということにしておこう。




