戻る子、残る子
神殿の中庭には、朝から馬車が一台停まっていた。
町と南のルアを結ぶ定期便だという。幌の色が褪せていて、馬は二頭とも鼻づらだけ白い。その横で、ロッタが落ち着きなく跳ねていた。編んだ髪の先がぴょこぴょこ揺れる。
「来るって。アルトさんが、もうすぐ来るって言った」
「うん。聞こえたよ」
隣でミアが答えた。答えながら、ロッタの手を握っている。握られているのか握っているのか、もう区別がつかない。
俺がここにいるのは、アルトさんに呼ばれたからだ。ロッタが「馬車を押さえてくれた人にも見てほしい」と言ったらしい。押さえたのは馬車ではなく人のほうだったし、馬車はむしろ持ち上げたのだが、七歳の記憶ではそうなっているのだろう。
エッダさんは少し離れた回廊の柱の陰で、アルトさんと書類を確かめていた。アルトさんの指には今日もインクの染みがある。
「叔母さまの身元は、ルアの神殿からの返書と、ご本人の持参された書付で照合が済んでいます。ロッタちゃんの話した家の様子とも合っています。昨夜遅くに町へ着かれて、今は宿からこちらへ向かっておられます」
門のほうで足音がした。
小柄な女の人が、息を切らして中庭に入ってきた。腕まくりした袖から、青く染まった指先が見えた。染物の仕事をしているのだと、あとで聞いた。
ロッタが止まった。
さっきまであれだけ跳ねていたのに、足が地面に縫いつけられたみたいに動かなくなった。ミアの手を握ったまま、口を開けて、閉じて、また開ける。
「……ソフィおばちゃん」
女の人は返事をしなかった。たぶん、できなかったのだ。走ってきて膝をつき、ロッタを抱きしめた。ロッタの手がミアの手からするりと抜けて、叔母の背中の服を握りしめる。
泣き声は、ロッタのほうが先だった。泣き虫だとベンが言っていたとおり、遠慮のない大きな泣き方だった。叔母は何度も「ごめんね」と言った。何を謝っているのか、たぶん本人にもはっきりとは分からないのだろう。間に合わなかったこと、知らなかったこと、遠くにいたこと。全部まとめて、ごめんね、になっていた。
俺は回廊の柱にもたれて、それを見ていた。
あの雨の夜、待避所の奥で、ロッタは寝る前に小さな声で歌っていた。自分を落ち着かせるための歌なんだろうと思って、俺は声をかけなかった。
今のロッタは、歌っていない。歌う必要がない。
*
ふと見ると、ミアが二人から一歩下がったところに立っていた。
離れたのはロッタの手が抜けたからで、ミアのほうから離れたわけではない。それでも、空いた右手をどうしていいか分からないように、服の裾をつまんでいる。
俺はミアの隣へ行って、少し間をあけてしゃがんだ。目の高さが合う。
「よかったな、ロッタ」
「うん」
ミアは二人から目を離さずにうなずいた。それから、もう一度うなずいた。
「よかった。ほんとに、よかった」
二回言うのは、一回では足りない気持ちがあるからだろう。俺は黙って隣にいた。雀が石畳の隙間をつついている。
しばらくして、ミアが言った。
「わたしも」
そこで言葉が止まった。
続きを急かすつもりはなかった。雀が一羽増えて、二羽になって、また一羽飛んでいった。
「わたしも、お母さんに会いたいな」
声は小さかったが、はっきりしていた。泣いてはいなかった。ただ、言ってから自分で驚いたみたいに、瞬きを何度かした。
俺はミアの母親について、何も知らない。どこにいるのか、どんな人なのか、今どうしているのか。アルトさんの記録の紙で空欄のままになっている項目のどこかに、たぶんその人のことがある。
「お母さん、どこにいるか、わからないの」
ミアはそれだけ言って、口を閉じた。
すぐ見つけてやる、と言いたくなった。
喉のすぐそこまで来ていた。言えば、たぶんミアは今だけは顔を上げてくれる。でも、俺はこの町の外のことをほとんど知らない。字もまだ読めない。どこを探せばいいのかも分からない人間が、九歳の子に「すぐ」と約束していいはずがなかった。
「会いたいって、教えてくれてありがとう」
結局、俺の口から出たのはそれだった。
「アルトさんたちが、手紙を出して調べてくれてる。俺は、自分にできることがあったら、ちゃんとやる。でも、いつ見つかるとか、絶対見つかるとかは、今は言えない。言ったら、嘘になるかもしれないから」
ミアは俺の顔を見た。怒るかと思った。がっかりするかと思った。
「うん」
ミアはうなずいて、服の裾から手を離した。
「ユウは、うそ、言わないもんね」
それは信頼なのか、ちょっとした嫌味なのか、どっちとも取れた。たぶん九歳のミアにも、どっちだか決めきれていない。
回廊からエッダさんが歩いてきた。会話の終わりだけ聞こえていたらしく、ミアの頭に軽く手を置いた。
「手紙はね、ちゃんと出ているよ。返事が遅いのは、道が遠いからさ。紙は、走れないからね」
「紙、走れないの」
「足がないもの」
真顔で言うので、ミアが小さく吹き出した。俺も危うく吹き出しかけた。エッダさんはいつもの顔のまま、アルトさんのほうへ戻っていった。
*
出発の時間が来た。
御者が手綱を持ち、ソフィが荷物を幌の中に押し込む。ロッタは目を真っ赤にしたまま、叔母に抱え上げられて荷台の縁に座った。
そのとき、ミアが動いた。
肩から斜めにかけていた小さな布袋を開けて、四つ折りにした紙を取り出す。何度も開いたり閉じたりしたのか、折り目のところが少し毛羽立っていた。
「ロッタ。これ」
ロッタが紙を開いた。
覗き込むと、炭筆で描いた絵だった。真ん中に女の子がいて、口を大きく開けている。その周りに鳥が四羽。どの鳥もくちばしを開けて、女の子と一緒に歌っているように見えた。鳥の一羽だけ、なぜか女の子より大きい。
「ロッタが歌ってるとこ。鳥も、いっしょに歌ってるの」
「この鳥、おっきい」
「その鳥は、声がおっきいから」
説明になっているような、なっていないような理屈だった。ロッタは絵を胸に抱えて、ぐしゃっと泣き笑いの顔になった。
「おうちで、はる。かべに、はる」
「うん」
「ミアも、うたって」
「わたしは、歌はへたなの」
「へたでも、うたって」
ミアが困った顔で俺を見た。俺に助けを求められても困る。俺だって歌はうまくない。前の人生のカラオケでは、点数が出るたびに友人の柴田が黙って水を差し出してきた。
御者が振り返って、出すよ、と声をかけた。
馬車が動き出す。ロッタは荷台から身を乗り出して手を振った。ソフィが後ろから服を掴んで支えている。神殿の門を抜けるところで、ロッタが歌い始めた。
待避所で聞いたのと、同じ歌だった。
あのときは息に紛れるくらい小さかった声が、今は通りの向こうまで届いた。調子は外れている。でも、ずいぶん楽しそうだった。
ミアは門の柱の横で、馬車の幌が角を曲がって見えなくなるまで手を振っていた。見えなくなってからも、二回くらい余分に振った。
それから振り返って、エッダさんの袖を引いた。
「エッダさん。ペトとベンにも、絵、描いていい?」
「いいよ。紙は一日一枚までね」
「一枚……」
ミアは真剣な顔でしばらく考えて、それから言った。
「じゃあ、ペトとベン、いっしょの一枚に描く。どっちも、はしっこにしない」
どちらを端に寄せないかまで考えているらしい。一枚の紙の真ん中は、一つしかないのだが。
アルトさんが書類の束を抱えて、俺の横を通り過ぎる。
「ペトくんは、織物職人さんのお宅で糸巻きを任されたそうです。まだ口数は少ないけれど、手が早いと。ベンくんは、見習い先を自分で二つまで見て決めたいそうで」
「二つまで、ですか」
「本人の希望です。三つ見ると迷うから、と」
十二歳にしては、ずいぶん自分の性格が分かっている。
アルトさんが去ったあと、俺は門の外の通りを眺めた。馬車の轍が、まだ乾ききらない土に二本続いていた。南へ、ルアへ。二日の道のりだという。
振り返ると、ミアはエッダさんの袖を引いたまま、紙屋に寄って帰る相談を始めていた。




