しっぽは持ち手じゃない
梨の木の下に長椅子があって、エッダさんはそこで莢豌豆の筋を取っていた。
膝の上に笊を一つ、足元に籠を一つ。筋を引いた莢を笊へ、筋を籠へ。手は休まずに動いているが、顔はときどき庭の真ん中のほうを向く。そこに俺とミアがいるからだ。
ミアは庭用になった古い靴を履いていた。踵がぱかぱか鳴る。新しい緑の靴は、玄関の内側にきちんと揃えて置いてあるのを、来るときに見た。
俺は狐の姿で、庭の土の上に座っていた。日向の土は温かく、草の匂いと、エッダさんの手元から豆の青い匂いが流れてくる。
「ねえ、ユウ。このあいだの、やって。ねずみの」
「ねずみはいないぞ」
「いるつもりで」
いるつもりで跳んでみた。思ったより高く跳べた。頭から突っこむのはやめておいた。着地した先が豆の畑の縁だったので、エッダさんに「そこは駄目だよ」と言われた。
*
垣根の上に、灰色の塊が乗っていた。
いつからいたのか分からない。丸い。とにかく丸い。灰色の毛がふかふかに膨らんでいて、そこから耳と、太い尻尾がはみ出している。黄色い目が、半分閉じたままこちらを見下ろしていた。
「ポムだ」とミアがささやいた。
お隣の猫。窓から勝手に入っていい、唯一の存在。
ポムは垣根の上で一度伸びをすると、するりと庭へ降りてきた。体の丸さからは想像できない身軽さだった。それから、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。
俺の鼻先で止まる。首を伸ばす。俺の匂いを嗅ぐ。耳の後ろを嗅ぐ。背中を嗅ぐ。
そして、ふん、と鼻を鳴らした。
ポムはくるりと向きを変えて、来たときと同じ足取りで垣根へ戻っていった。振り返りもしなかった。
俺はその場に座ったまま、しばらく動けなかった。
何がいけなかったのだろう。匂いか。毛並みか。狐だからか。黒いからか。前の人生でも、近所の猫に好かれたことはあまりなかった。生まれ変わっても、そこは引き継がれたらしい。
「ポムは、だれにでもああなの」
ミアが俺の背中に向かって、慰めるように言った。
「わたしも、まださわらせてもらえない。三回ためしたけど、三回ともあっちに行っちゃった」
「グレタさんしか触れないんだよ、あの子」とエッダさんが豆の筋を引きながら言った。「グレタさんにも、気が向いたときだけさ」
それを聞いて、半分くらい立ち直った。
*
ミアがエッダさんから毛糸の切れ端をもらってきた。
端を持って、地面の上をすうっと引く。毛糸の先が、土の上を蛇のように這った。
見た瞬間に、身体が勝手に飛びかかっていた。
押さえる。毛糸がミアの手で引かれて、前足の下からするりと抜ける。また飛びかかる。抜ける。右へ。左へ。森の岩の上で、自分の影を追いかけて回っていたときと同じだった。分かっているのに止まらない。
ミアは声を上げて笑っていた。毛糸を右へ左へ振りながら、庭の中を走る。俺はそれを追いかけて走る。
梨の木の周りを二周した時だった。
ミアの横をすり抜けようとした瞬間、尻尾の根元がぐいっと引かれた。
「つかまえた!」
「いっ――」
声が出た。痛いというより、驚いた。後ろへ引き戻されて、前足が土の上で空を掻いた。
ミアの手は、すぐに離れた。
振り向くと、ミアは両手を胸の前で握りしめて、一歩下がっていた。さっきまでの笑い顔が、どこかへ消えていた。目が、俺と、長椅子のエッダさんとを素早く行き来した。叱られるのを待っている顔だった。
エッダさんは手を止めていた。でも、何も言わなかった。俺のほうを見て、待っていた。
俺は一度、息を吸った。
「ミア。しっぽは、つかまないでほしい」
できるだけ、いつもと同じ声で言った。
「びっくりするし、引っぱられると、ちょっと痛い。しっぽは、持ち手じゃないんだ」
ミアの肩が、小さく縮んだ。
「怒ってない。いやだって言っただけだ」
ミアは俺の顔をじっと見ていた。怒っていないかどうかを、自分の目で確かめているみたいだった。
「撫でるなら、背中から、毛の向きにそって撫でてくれるとうれしい。しっぽも、根元のほうをそっと撫でるくらいなら平気だ」
ミアはしばらく黙っていた。それから、握りしめていた手を少しだけほどいた。
「……ほかにも、いやなこと、ある?」
聞かれるとは思っていなかった。俺は考えた。
「耳の中に息を吹きかけられるのは、くすぐったくて、変な声が出る」
「へんな声?」
「聞かせない」
ミアの口の端が、ほんの少し持ち上がった。
それで、俺も聞いてみることにした。
「ミアは? いやなこと、ある?」
ミアは目をぱちぱちさせた。自分が聞かれる側になるとは思っていなかったのかもしれない。長いこと考えて、地面を見て、それから答えた。
「……うしろから、急に呼ばれるの。びっくりする」
「分かった。前から呼ぶ」
「あと、にがい青菜」
長椅子から、エッダさんの声がした。
「それはもう聞いたよ」
ミアが、今度ははっきり笑った。
*
ミアは俺の横にしゃがんで、手のひらを背中に置いた。
首の後ろから、尻尾のほうへ。毛の向きにそって、ゆっくり一回。もう一回。さっき毛糸を振り回していた手とは思えないくらい、そろそろと動く。尻尾の根元のところで手が止まって、そこを指先でそっと撫でた。
撫でられているうちに、背中の後ろで何かがぱたぱたと動いた。
尻尾だった。俺は何も命令していない。勝手に、地面を右へ左へ払っている。
「しっぽ、うれしいって言ってる」
ミアがそれを指さした。否定しようとして、できなかった。
「……しっぽは、俺より正直なんだ」
長椅子のほうで、豆の莢がひとつ、ぱちんと妙に大きな音を立てて割れた。
日が傾いて、梨の木の影が庭を半分まで覆った頃、垣根の上にまた灰色の塊が乗っていた。
ミアは俺の背中から手を離して立ち上がると、垣根の下まで歩いていった。走らなかった。垣根の下で立ち止まり、手の甲を上にして、ゆっくり差し出す。そのまま待った。
ポムは黄色い目でミアの手を見下ろした。長いこと見ていた。それから、大きくあくびをして、向こう側へ降りていった。
ミアは手を下ろして、こちらを振り返った。
「きょうは、いやなんだって」
そう言って、笑った。
ポムの尻尾が、垣根の向こうへ一拍遅れて消えていった。




