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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第二章 会いに行く場所

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しっぽは持ち手じゃない

梨の木の下に長椅子があって、エッダさんはそこで莢豌豆の筋を取っていた。


膝の上に笊を一つ、足元に籠を一つ。筋を引いた莢を笊へ、筋を籠へ。手は休まずに動いているが、顔はときどき庭の真ん中のほうを向く。そこに俺とミアがいるからだ。


ミアは庭用になった古い靴を履いていた。踵がぱかぱか鳴る。新しい緑の靴は、玄関の内側にきちんと揃えて置いてあるのを、来るときに見た。


俺は狐の姿で、庭の土の上に座っていた。日向の土は温かく、草の匂いと、エッダさんの手元から豆の青い匂いが流れてくる。


「ねえ、ユウ。このあいだの、やって。ねずみの」


「ねずみはいないぞ」


「いるつもりで」


いるつもりで跳んでみた。思ったより高く跳べた。頭から突っこむのはやめておいた。着地した先が豆の畑の縁だったので、エッダさんに「そこは駄目だよ」と言われた。


*


垣根の上に、灰色の塊が乗っていた。


いつからいたのか分からない。丸い。とにかく丸い。灰色の毛がふかふかに膨らんでいて、そこから耳と、太い尻尾がはみ出している。黄色い目が、半分閉じたままこちらを見下ろしていた。


「ポムだ」とミアがささやいた。


お隣の猫。窓から勝手に入っていい、唯一の存在。


ポムは垣根の上で一度伸びをすると、するりと庭へ降りてきた。体の丸さからは想像できない身軽さだった。それから、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。


俺の鼻先で止まる。首を伸ばす。俺の匂いを嗅ぐ。耳の後ろを嗅ぐ。背中を嗅ぐ。


そして、ふん、と鼻を鳴らした。


ポムはくるりと向きを変えて、来たときと同じ足取りで垣根へ戻っていった。振り返りもしなかった。


俺はその場に座ったまま、しばらく動けなかった。


何がいけなかったのだろう。匂いか。毛並みか。狐だからか。黒いからか。前の人生でも、近所の猫に好かれたことはあまりなかった。生まれ変わっても、そこは引き継がれたらしい。


「ポムは、だれにでもああなの」


ミアが俺の背中に向かって、慰めるように言った。


「わたしも、まださわらせてもらえない。三回ためしたけど、三回ともあっちに行っちゃった」


「グレタさんしか触れないんだよ、あの子」とエッダさんが豆の筋を引きながら言った。「グレタさんにも、気が向いたときだけさ」


それを聞いて、半分くらい立ち直った。


*


ミアがエッダさんから毛糸の切れ端をもらってきた。


端を持って、地面の上をすうっと引く。毛糸の先が、土の上を蛇のように這った。


見た瞬間に、身体が勝手に飛びかかっていた。


押さえる。毛糸がミアの手で引かれて、前足の下からするりと抜ける。また飛びかかる。抜ける。右へ。左へ。森の岩の上で、自分の影を追いかけて回っていたときと同じだった。分かっているのに止まらない。


ミアは声を上げて笑っていた。毛糸を右へ左へ振りながら、庭の中を走る。俺はそれを追いかけて走る。


梨の木の周りを二周した時だった。


ミアの横をすり抜けようとした瞬間、尻尾の根元がぐいっと引かれた。


「つかまえた!」


「いっ――」


声が出た。痛いというより、驚いた。後ろへ引き戻されて、前足が土の上で空を掻いた。


ミアの手は、すぐに離れた。


振り向くと、ミアは両手を胸の前で握りしめて、一歩下がっていた。さっきまでの笑い顔が、どこかへ消えていた。目が、俺と、長椅子のエッダさんとを素早く行き来した。叱られるのを待っている顔だった。


エッダさんは手を止めていた。でも、何も言わなかった。俺のほうを見て、待っていた。


俺は一度、息を吸った。


「ミア。しっぽは、つかまないでほしい」


できるだけ、いつもと同じ声で言った。


「びっくりするし、引っぱられると、ちょっと痛い。しっぽは、持ち手じゃないんだ」


ミアの肩が、小さく縮んだ。


「怒ってない。いやだって言っただけだ」


ミアは俺の顔をじっと見ていた。怒っていないかどうかを、自分の目で確かめているみたいだった。


「撫でるなら、背中から、毛の向きにそって撫でてくれるとうれしい。しっぽも、根元のほうをそっと撫でるくらいなら平気だ」


ミアはしばらく黙っていた。それから、握りしめていた手を少しだけほどいた。


「……ほかにも、いやなこと、ある?」


聞かれるとは思っていなかった。俺は考えた。


「耳の中に息を吹きかけられるのは、くすぐったくて、変な声が出る」


「へんな声?」


「聞かせない」


ミアの口の端が、ほんの少し持ち上がった。


それで、俺も聞いてみることにした。


「ミアは? いやなこと、ある?」


ミアは目をぱちぱちさせた。自分が聞かれる側になるとは思っていなかったのかもしれない。長いこと考えて、地面を見て、それから答えた。


「……うしろから、急に呼ばれるの。びっくりする」


「分かった。前から呼ぶ」


「あと、にがい青菜」


長椅子から、エッダさんの声がした。


「それはもう聞いたよ」


ミアが、今度ははっきり笑った。


*


ミアは俺の横にしゃがんで、手のひらを背中に置いた。


首の後ろから、尻尾のほうへ。毛の向きにそって、ゆっくり一回。もう一回。さっき毛糸を振り回していた手とは思えないくらい、そろそろと動く。尻尾の根元のところで手が止まって、そこを指先でそっと撫でた。


撫でられているうちに、背中の後ろで何かがぱたぱたと動いた。


尻尾だった。俺は何も命令していない。勝手に、地面を右へ左へ払っている。


「しっぽ、うれしいって言ってる」


ミアがそれを指さした。否定しようとして、できなかった。


「……しっぽは、俺より正直なんだ」


長椅子のほうで、豆の莢がひとつ、ぱちんと妙に大きな音を立てて割れた。


日が傾いて、梨の木の影が庭を半分まで覆った頃、垣根の上にまた灰色の塊が乗っていた。


ミアは俺の背中から手を離して立ち上がると、垣根の下まで歩いていった。走らなかった。垣根の下で立ち止まり、手の甲を上にして、ゆっくり差し出す。そのまま待った。


ポムは黄色い目でミアの手を見下ろした。長いこと見ていた。それから、大きくあくびをして、向こう側へ降りていった。


ミアは手を下ろして、こちらを振り返った。


「きょうは、いやなんだって」


そう言って、笑った。


ポムの尻尾が、垣根の向こうへ一拍遅れて消えていった。


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