湯気のある席
夜を四つ越した日の昼前、俺は市場のパン屋の前で迷っていた。
棚に並んでいる中に、皮が厚くて、上に砂糖をまぶして焼いた丸いパンがある。表面の砂糖が、ところどころ茶色く焦げている。焦げてはいるが、焦げすぎてはいない、と思う。焦げすぎの基準を、俺はまだ正確に知らない。
一つ五銅貨。三人で分けるにはちょうどいい大きさだった。
店主のおかみさんに包んでもらってから、市場の角の小祠の前を通った。パン屋の主人が、店を出がけにそこで頭を下げていくのを何度か見ている。俺も真似をして頭を下げた。何に向かって下げているのかは、まだよく分かっていない。
*
鈴蘭通りの家に着くと、台所から湯気と、煮込みの匂いが漂ってきた。扉を開けてくれたミアの足元で、古い靴の踵がぱかりと鳴った。片方は、あの林道の泥の中から俺が拾い上げた靴だ。洗ってはあるが、爪先の革が擦り切れて白っぽくなっている。
包みを渡すと、ミアは中を覗いて動きを止めた。
それから、パンを光にかざすように持ち上げて、焦げ目をじっくり点検した。
「……ちょうどいい焦げ」
合格だった。俺は思わず息を吐いた。トマさんに葉を見てもらった時より緊張していたかもしれない。
「何か手伝えることはありますか」
台所のエッダさんに聞くと、エッダさんは鍋をかき回しながら、俺を上から下まで見た。
「井戸の水を、そこの瓶に二杯。それから、匙を三本並べておくれ」
「切るものとかは」
「包丁の場所を知らない人に、包丁は任せないよ」
もっともだった。俺は井戸で水を汲み、瓶を満たし、匙を三本並べた。並べ終えてから、匙の向きを揃え直した。
そうしているうちに、ふと思い出した。
実家の台所でも、母さんは俺に包丁を持たせなかった。帰省すると、俺の仕事は箸を並べることと、唐揚げの大皿を食卓へ運ぶことだけだった。運ぶ途中でつまみ食いをして、毎回怒られた。毎回つまみ食いをした。
あの頃は、食卓に自分の席があることを、何とも思っていなかった。
*
昼食は、豆と腸詰めの煮込みと、黒パンと、茹でた青菜。それに、俺の持ってきた砂糖パンが真ん中に置かれた。
エッダさんが短く食前の祈りを唱えた。ミアは両手を膝の上に揃えて、目を閉じて待っていた。祈りが終わると、ミアは先に煮込みの皿を引き寄せた。
煮込みはうまかった。豆が柔らかくて、腸詰めの脂が汁に溶けている。ミアも夢中で匙を動かしていた。
それから、ミアの匙が青菜の手前で止まった。
青菜は深い緑色をしていて、くったりと皿に伸びていた。ミアは匙の先で青菜を少しだけ押して、また煮込みに戻った。煮込みを一口食べて、また青菜を押した。押された青菜は、皿の縁のほうへ少しずつ追いやられていった。
エッダさんは自分の皿を食べながら、何でもないことのように言った。
「その青菜、苦いだろう。お隣のグレタさんにたくさんもらったものだから、張り切って茹ですぎたんだよ」
ミアが顔を上げた。
「一口だけ食べてごらん。だめなら残していい。この前は苦手なものは『ない』って言ってたけど、出てきてから分かることもあるからね」
ミアは青菜を見た。俺を見た。エッダさんを見た。
それから、端の小さな一切れを匙に載せて、口に入れた。
噛んだ。顔がくしゃっと縮んだ。
「……にがい」
少し間があって、もう一言。
「きらい」
エッダさんはうなずいた。
「そうかい。じゃあ、残りは置いておきな。次は茹で方を変えてみるか、別の野菜にしよう」
それで、話は終わった。叱りもしなかったし、褒めもしなかった。ミアの皿の青菜は、そのまま縁に残された。
俺も自分の青菜を口に入れた。にがかった。顔に出さないように噛んでいると、ミアがじっと見ていた。
「ユウも、にがい?」
「……にがい」
「にがいのに、食べるの?」
「作ってくれた人の前だと、なぜか全部食べたくなるんだ。そういう性分で」
ミアは真剣な顔で考えこんだ。それから、皿の縁に追いやっていた青菜を、匙でそっと俺の皿へ移した。
「じゃあ、これも」
そういう意味で言ったのではなかった。エッダさんは向こうを向いて、肩を小さく震わせていた。
結局、俺の皿の青菜は二人分になり、俺はそれを全部食べた。性分なので仕方がない。
最後に、砂糖パンを三つに分けた。ミアは自分の分を両手で持って、一番焦げた角から食べた。
「角から食べるのか」
「角はね、いちばん焦げてて、いちばんかりかりなの。だから、いちばん先。おなかいっぱいになってから食べたら、もったいないでしょ」
「最後に取っておかないんだな」
「とっておいたら、ポムに取られるかもしれないから」
ポムがこの家の食卓に上がるのかどうか、俺は知らない。エッダさんが即座に「上がらせないよ」と言ったので、たぶん一度は上がったのだ。
俺も角からかじってみた。焦げた砂糖が歯に当たって、ぱりんと割れた。たしかに、これを後に回すのはもったいない。前の人生の俺は、好きなものを最後に取っておく派だった。一口で宗旨替えした。
*
食後、皿洗いはエッダさんがして、俺は皿を拭いた。拭いた皿をミアが棚に戻した。三人で一つの仕事をすると、思っていたより早く終わった。
帰り支度をしていると、エッダさんが布巾に包んだものを差し出した。
「煮込みが余ったんだ。器ごと持っておいき。器は、次に来るときに返しておくれ」
小さな素焼きの器で、蓋の上から布巾できっちり縛ってある。まだ温かかった。
「次は……」と、エッダさんは壁の暦を見た。ミアの描いた狐が、今日の升目からはみ出している。「四日後に、この子の靴を買いに行くんだよ。荷物持ちが一人いると助かるんだけどね」
ミアが、自分の足元の擦り切れた靴を見下ろした。
「行きます」
「荷物は多いよ。ついでに市場にも寄るからね」
「荷物持ちは、得意です」
ミアは暦の前へ走っていって、四つ先の升目に、また何かを描き始めた。今度は靴らしい形だった。狐に比べて、靴は描きにくそうだった。
門を出て、坂を下りる。
器は温かくて、布巾越しに煮込みの匂いがした。割らないように片手で持ったり、両手で持ったり、何度か持ち方を変えた。結局、腹の前に抱えるのが一番落ち着いた。
午後は荷揚げ場に顔を出すつもりだったが、まずはこれをどこかで食べてからにしよう。冷めないうちに。
第一章「一度目の人生と、四人の子供」完。次回から第二章「会いに行く場所」です。




