また来る日
扉を叩くと、内側でぱたぱたと足音がして、扉が細く開いた。
隙間から琥珀色の目がこちらを見上げている。その後ろに、エッダさんの肩掛けの端が見えた。
「ユウだ」
ミアは後ろに向かってそう言い、扉を大きく開けた。開けたのはミアで、エッダさんはその後ろで見ていた。たぶん、そういう決まりにしたのだろう。
食卓に着くと、ミアは俺の斜め向かいに座った。前回は向かいの一番遠い椅子だったから、椅子一つ分近い。
俺は荷揚げ場から借りてきた木炭のかけらを出した。エッダさんに断って、反故紙の裏を一枚もらう。そこへ、四日前に覚えた二つの字を書いた。
ミアは紙を両手で持って、真剣な顔で検分した。
「『ア』は、合ってる」
「『ミ』は」
「しっぽが長すぎる。これだと、べつの字になっちゃう」
何の字になるのか聞くと、ミアはエッダさんを見た。エッダさんは紙を覗いて「『ミ』になりそこねた何か、だね」と言った。字ですらなかったらしい。
ミアが俺の手から木炭を取って、横に正しい形を書いた。尻尾の線は、俺が思っていたよりずっと短かった。俺はそれを見ながら三回書き直し、三回目でようやく「いいよ」が出た。
木炭を返してもらおうと手を伸ばしたとき、ミアの肩が小さく跳ねた。
俺の手が、思ったより速く動いたのだと思う。ミアはすぐに木炭を差し出したし、怖がった顔はしていなかった。それでも、身体のほうが先に反応したのは見えた。
俺は木炭を受け取って、手を膝の上に戻した。何も言わなかった。言えば、ミアは「だいじょうぶ」と答えるしかない。
ミアは少しのあいだ紙の字を眺めていて、それから、俺のほうは見ずに言った。
「……きつねさんに、なってくれる?」
「いいよ」
俺は椅子から降りて、エッダさんの床の上で狐になった。今日も床は掃いてあった。
ミアは椅子から滑り降りて、俺の前に座りこんだ。さっきまでの斜め向かいより、ずっと近い。
「狐はね、地面の下にいるねずみの音が聞こえるんだよ。それで、ぴょーんって高く跳んで、頭から雪にずぼって突っこむの。冬の狐は、みんなそうやってごはんを捕まえるの」
「雪がないときは」
「地面に突っこむ」
「……痛そうだな」
ミアは目をまんまるにして、それから両手で口を押さえて笑った。笑い声が手の隙間から漏れて、エッダさんが台所で茶葉の缶を落としかけた。
「ユウも、できる?」
「やったことない」
「こんど、お庭でやって。雪じゃなくて、草のとこで」
頭から突っこむところまでやるのかどうかは、聞かないでおいた。
ミアは「さわっていい?」と聞いてから、俺の背中に手を置いた。前回と同じ質問だった。前回いいと言われたのだから今回もいい、とは考えないらしい。毎回聞くつもりなのかもしれない。それなら俺も、毎回「いいよ」と答えることにした。
*
日が傾き始めた頃、ミアが俺の前で膝をそろえて座り直した。
「つぎは、いつ?」
前回、門の前で聞かれたのと同じ質問だった。でも今日は、外套の端を引っぱるひそひそ声ではなかった。エッダさんにも聞こえる声で、まっすぐ俺に聞いていた。
明日、と言いたくなるのは前回と同じだ。
「明日は荷揚げ場で一日働く。その次の日は森で葉っぱを採る。その次も荷揚げ場」
狐の口で指を折るわけにいかないので、ミアが代わりに指を折ってくれた。三本。
「だから、毎日は来られない。でも、来ると決めた日には来る」
エッダさんが台所から戻ってきた。
「四日後のお昼はどうだい。一緒にお昼を食べよう。その次の日は、私、ご近所と駒取りの集まりがあってね。負けられない勝負なんだよ」
最後のひとことだけ、妙に力がこもっていた。
「相手は、強いんですか」
「グレタさんだよ。お隣の」
エッダさんは茶葉の缶の蓋を、もう閉まっているのに、もう一度ぎゅっと押しこんだ。
「あの人は勝つと、三日は鼻歌を歌うんだ。うちまで聞こえる。前の三日は長かったよ」
「エッダさん、まけたの?」とミアが聞いた。エッダさんは答えずに、缶を棚へ戻した。
「四日後のお昼に、伺います」
ミアは立ち上がって、台所の壁のところへ走っていった。壁には大きな紙が一枚貼ってあって、細かい升目に区切られている。暦だ。元書記の家らしく、升目のいくつかに小さな字で何か書き込んである。
ミアは升目を指でたどった。今日のところから、一つ、二つ、三つ、四つ。
「エッダさん。ここに、しるし、つけていい?」
「炭でね。インクだと消えないから」
ミアは俺の木炭を借りて、四つ目の升目に何かを描いた。覗きこむと、三角の耳が二つと、ふさふさの尻尾がついた小さな丸だった。升目からはみ出しそうなくらい尻尾が大きかった。
「……尻尾、長すぎないか」
「これは、字じゃないから、いいの」
そう言われると、何も言い返せない。
*
帰り支度をして人間の姿に戻ると、ミアは門まで一緒に出てきた。
「四つ寝たら、お昼に、ユウが来る。ごはんをいっしょに食べる」
指を四本立てて、確かめるように言った。
「そう」
門の閂に手をかけたところで、もう一度。
「四つ寝たら、お昼」
「うん」
門を出て振り返ると、ミアはまだ指を四本立てていた。
「お昼に、ユウが来る」
エッダさんが、真顔のまま言った。
「それで四回目だね」
「五回目」とミアが訂正した。
数えていたらしい。エッダさんは数え直す顔になって、俺も途中から数がよく分からなくなった。
*
坂を下りながら、俺はミアの立てた四本の指のことを考えていた。
四つ寝たら。九歳の子が、何回も、同じことを口に出して確かめていた。忘れないように。間違えないように。それとも、言うたびに少しずつ本当になっていくのが、嬉しかったのか。どれなのかは分からない。分からないが、聞かれた俺のほうは、たぶん嬉しかった。
前の人生で、次はいつ来るのかと何度も聞いてきたのは母さんだった。帰省の電話を切る前に、必ず二回は聞いた。俺は面倒そうに答えていた気がする。
坂の下で、俺は自分の指を四本立ててみて、困った。
俺は夜をたいてい起きたまま過ごす。四つ寝たら、がうまく使えない。
仕方がないので、夜を四つ越したら、と数えることにした。少し語呂が悪い。




