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『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


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第八章 祭りの夜

闇だった。


さっきまで提灯に照らされていた港が、一瞬で黒く沈む。


祭囃子も止んだ。


風だけが吹いている。


だが人影は消えていない。


暗闇の中に、無数の島民たちが立っていた。


誰も動かない。


誰も喋らない。


その顔は見えない。


まるで影だけが残っているようだった。


遼は喉を鳴らした。


「……何なんだよ、これ」


澪が震える声で言う。


「過去……なのかな」


その時。


カン――……


港の奥で鐘が鳴った。


低く、重い音。


すると影たちが、一斉に海のほうを向いた。


ざわ……。


波が揺れる。


海面の向こうに、小さな漁船の灯りが見えた。


霧の中から近づいてくる。


遼の心臓が強く鳴る。


分かってしまった。


――事故の日だ。


船が港へ入ってくる。


若い恒一。


佐伯。


他の漁師たち。


皆、酒を飲んでいるのか、大声で笑っていた。


だがその中で、美咲だけが笑っていない。


白いワンピース姿の彼女は、船の端に立ち、海を見ていた。


若い恒一が近づく。


『本当に行くんか』


声が聞こえた。


まるで映画を観ているように、過去の音が流れ込んでくる。


美咲は小さく頷く。


『東京へ』


恒一は苦しそうな顔をした。


『あいつと』


画家の男のことだろう。


美咲は答えない。


沈黙。


波の音だけが響く。


やがて恒一が言った。


『……やめとけ』


その声には、怒りではなく懇願が混じっていた。


『島の外なんか行っても、幸せになれん』


美咲はゆっくり振り返る。


『ここにいたら幸せになれるの?』


恒一は言葉を失う。


美咲の目は、涙で濡れていた。


『この島、みんな人のことばっかり見てる』


風が吹く。


『誰が誰を好きとか、誰がどこへ行くとか』


彼女は笑った。


悲しい笑顔だった。


『息が詰まりそう』


遼は黙って見つめていた。


これは怪談ではない。


人間の話だ。


狭い島。


閉じた共同体。


逃げ場のない視線。


瀬戸内の穏やかな海の裏側にある、息苦しさ。


美咲は続ける。


『私は海の向こうへ行きたい』


恒一が拳を握る。


『……俺じゃ駄目か』


その言葉に、澪が息を呑んだ。


若い恒一は、本気だった。


本当に彼女を愛していた。


美咲は目を伏せる。


『ごめん』


静かな返事。


その瞬間だった。


背後で誰かが叫んだ。


『いたぞ!!』


数人の男が船へ乗り込んでくる。


酔った漁師たちだ。


顔は赤く、怒気を帯びている。


『島の金持ち逃げする気か!』


『よそ者に股開きやがって!』


『恥さらしが!!』


美咲の顔が強張る。


遼は思わず前へ出ようとした。


だが身体は動かない。


これは過去だ。


変えられない。


男たちが美咲を囲む。


恒一が止めに入る。


『やめろ!!』


だが一人が怒鳴った。


『お前もグルじゃろうが!!』


揉み合いになる。


船が揺れる。


霧が濃くなる。


誰かが美咲の腕を掴む。


彼女が悲鳴を上げる。


『離して!!』


次の瞬間。


足を滑らせた。


白い身体が傾く。


海へ。


落ちる。


ザバン!!


遼の胸が締めつけられる。


海面に白い腕が浮かぶ。


『助けて!!』


美咲の叫び。


だが。


誰も飛び込まない。


男たちは凍りついていた。


酔いが一瞬で醒めている。


暗い海。


濃霧。


強い潮流。


そして。


海の底から、“何か”が浮かび上がった。


巨大な黒い影。


無数の白い顔。


海鬼。


若い恒一だけが叫ぶ。


『美咲ィ!!』


飛び込もうとする。


だが佐伯たちが止めた。


『無理じゃ!!』


『死ぬぞ!!』


『あれを見るな!!』


海面が大きく渦を巻く。


美咲の身体が沈む。


伸ばされた手。


絶望の顔。


そして。


彼女は最後に、恒一を見た。


その目だけが、今の遼にははっきり見えた。


――助けて。


だが恒一は届かなかった。


海が閉じる。


波が静まる。


瀬戸内の海は、再び何事もなかったように凪いだ。


沈黙。


港の影たちが、一斉に遼を見た。


ぞっとするほど無機質な視線。


そして全員が、同じ言葉を呟いた。


『見殺し』


次の瞬間。


祭りの景色が崩れ始めた。


人影が溶ける。


提灯が燃える。


海が黒く染まる。


その中心に、美咲が立っていた。


今度は死人の姿で。


顔半分が崩れ、濡れた髪が垂れている。


彼女は遼を見つめる。


「あなたのおじいさんは、最後まで私を忘れなかった」


静かな声。


「だから待ってた」


「……何を」


美咲が一歩近づく。


「代わりを」

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