第九章 代わりの海
「……代わり?」
遼の声は掠れていた。
美咲は静かに頷く。
死人の顔なのに、その瞳だけは妙に悲しかった。
「海はね」
彼女の濡れた髪が揺れる。
「奪ったものを返さない」
背後で、黒い海がうごめいた。
海鬼だ。
巨大な身体が港の下から浮かび上がり、無数の白い顔が波間で蠢いている。
『カエセ』
『ヒトリ』
『ヒトリ』
低い声が響く。
澪が遼の腕を掴んだ。
「逃げよう……!」
だが美咲は首を横に振った。
「もう逃げられない」
その瞬間。
港の地面に亀裂が走った。
提灯が落ち、黒い海水が噴き出す。
島全体が軋んでいる。
まるで海の底へ引きずられているように。
遼は叫んだ。
「何なんだよ、この化け物は!」
美咲はゆっくり海鬼を振り返る。
「人の海」
「……え?」
「沈んだもの」
風が吹く。
「帰れなかった人」
海鬼の身体の中で、無数の顔が呻いている。
漁師。
子供。
女。
老人。
皆、海へ消えた者たち。
瀬戸内は穏やかな海だ。
だが同時に、多くの命を飲み込んできた海でもある。
台風。
転覆事故。
密漁。
戦時中の沈没船。
数え切れない死。
その想いが積もり、“海鬼”になった。
美咲は静かに言った。
「私は最後だった」
「最後?」
「海鬼が生まれる前の」
彼女は遼を見た。
「だから、あれは私を離さなかった」
遼は息を呑む。
美咲は三十年間、海鬼に囚われ続けていたのだ。
成仏もできず。
死ぬことも終われず。
永遠に。
澪が震える声で言う。
「じゃあ……どうしたら」
美咲は答えなかった。
代わりに、若き日の恒一がいた場所を見つめた。
そこにはもう誰もいない。
ただ黒い海だけが広がっている。
「恒一さんは、何度も海へ来た」
美咲が呟く。
「毎年、祭りの日に」
遼は思い出す。
祖父はなぜ蔵を閉ざしていたのか。
なぜ新聞記事を集めていたのか。
なぜ最後まで島を離れなかったのか。
――罪を背負っていたからだ。
美咲を助けられなかった罪。
見殺しにした後悔。
彼は一生、それを抱えて生きた。
美咲が遼へ近づく。
「でも、もう限界」
死人の指先が、遼の胸へ触れた。
氷のように冷たい。
「海鬼は、新しい“器”を欲しがってる」
遼の背後で海鬼が咆哮した。
黒い波が港を飲み込み始める。
家々が沈む。
人影たちが海へ引きずられる。
そしてその全員が、遼を見ていた。
『オマエ』
『オマエガ』
『カワリ』
澪が泣きそうな声を上げる。
「駄目!!」
遼の手を強く握る。
その温度だけが、現実だった。
遼は初めて気づく。
東京では、誰にも触れられていなかった。
誰とも本気で繋がっていなかった。
だがこの島へ来て。
澪と出会い。
祖父の過去を知り。
初めて、自分が誰かの人生の延長線上にいると理解した。
逃げ続けてきた自分。
何も選ばなかった自分。
だが今、選ばなければならない。
遼は美咲を見た。
「俺が海へ行けば、終わるのか」
澪が振り向く。
「駄目!!」
美咲は少しだけ目を伏せた。
「……分からない」
正直な答えだった。
「でも、海鬼は満たされる」
沈黙。
遠くで、島の寺の鐘が鳴った。
ゴォン――……
その音を聞いた瞬間、美咲の顔色が変わる。
「……来る」
海が盛り上がる。
巨大な黒い腕が港の下から現れた。
島そのものを掴むほど巨大な腕。
海鬼が完全に目覚めようとしていた。
『カエセェェェェ!!』
轟音。
港が崩れる。
澪が倒れる。
遼は咄嗟に抱き寄せた。
その時だった。
蔵の奥から、突然灯りが差した。
温かい橙色の光。
そして。
聞き覚えのない、老人の声。
「まだじゃ」
遼が振り向く。
蔵の入口に、一人の男が立っていた。
古い漁師服。
白髪。
だが姿が半透明に揺れている。
遼は息を止めた。
その顔は。
写真で見た若い頃の面影を残していた。
――祖父、三上恒一だった。




