第七章 沈む声
「佐伯さん!!」
遼の叫びが地下室へ響いた。
海鬼の腕――いや、無数の人間の腕が絡み合ったような黒い塊が、佐伯清治の胸を貫いていた。
血が飛ぶ。
だが赤ではない。
海水に混じったそれは、墨のように黒かった。
佐伯は苦痛に顔を歪めながらも、遼を睨みつける。
「行け!!」
怪物が咆哮する。
地下室全体が震えた。
壁が崩れ、海水がさらに流れ込む。
澪が遼の腕を掴んだ。
「早く!!」
遼は動けなかった。
佐伯が海鬼へ飲み込まれていく。
老人の身体へ、白い無数の顔が食らいついていた。
泣き声。
笑い声。
怨嗟。
『カエセ』
『オボレロ』
『イッショニ』
耳の奥へ直接流れ込む声。
佐伯は最後の力を振り絞るように叫んだ。
「恒一は……守ろうとしたんや!!」
その瞬間。
海鬼の腕が佐伯の身体を完全に引き裂いた。
血飛沫。
澪の悲鳴。
遼の視界が真っ赤に染まる。
「っ……!!」
だが、佐伯の最後の言葉だけが頭に残った。
――守ろうとした。
祖父が?
美咲を?
混乱する遼の前で、美咲がゆっくり首を傾げる。
「違う」
静かな声。
「みんな、見てただけ」
海鬼の身体が膨れ上がる。
地下室の天井へ届くほど巨大化し、岩を砕き始めた。
もう逃げるしかない。
澪が叫ぶ。
「遼さん!!」
遼は歯を食いしばり、澪の手を掴んだ。
二人は階段へ走る。
後ろで海鬼が暴れる音。
地下室そのものが崩壊し始めていた。
階段を駆け上がる。
海水が追ってくる。
まるで巨大な波が生きているように。
蔵へ飛び込んだ瞬間、背後で轟音が響いた。
地下室の入口が崩れ落ちる。
床板が吹き飛び、黒い海水が噴き上がった。
遼と澪は床へ転がる。
その直後。
地下から、美咲の声が響いた。
「まだ終わってない」
蔵全体が揺れる。
棚が倒れ、新聞記事が宙を舞った。
その中の一枚が遼の顔へ貼りつく。
見出し。
《行方不明女性、依然発見されず》
記事の端には、手書きの文字。
『四人目がいる』
遼は息を止めた。
四人目。
死者は三人だったはずだ。
だが行方不明が一人。
合計四人。
では。
“もう一人”は誰だ。
その時。
蔵の外から祭囃子が聞こえた。
二人とも顔を上げる。
太鼓。
笛。
陽気な掛け声。
だが、今日は祭りではない。
澪の顔が青ざめる。
「……嘘」
遼も気づいた。
さっきまで真夜中だった空が、薄赤く染まっている。
夜明けではない。
夕焼けだ。
「時間が……戻ってる?」
蔵の戸の隙間から、港が見えた。
人がいる。
たくさん。
浴衣姿。
提灯。
子供たち。
まるで昭和の夏祭り。
遼は呆然とした。
「なんだよ、これ……」
澪が震える声で言う。
「三十年前の祭り……」
風が吹く。
祭囃子が近づく。
笑い声。
酒の匂い。
焼き魚の煙。
瀬戸内の夏祭り。
消えたはずの風景。
その群衆の中を、白いワンピースの女が歩いていた。
美咲だ。
今度は普通の人間の姿だった。
若い。
美しい。
笑っている。
そして。
彼女の隣には、若い頃の祖父・恒一がいた。
遼は息を呑む。
祖父は笑っていた。
今まで見たことがないほど、穏やかな顔で。
美咲も笑っている。
恋人同士のように。
澪が小さく呟いた。
「……違う」
遼が振り向く。
「何が」
「画家じゃない」
彼女の視線は、若き恒一へ向いていた。
「美咲さんが好きだったの……」
祭囃子の中。
白い服の美咲が、ゆっくりこちらを振り向いた。
その笑顔が、一瞬で消える。
次の瞬間。
港の灯りが、全部消えた。




