第五章 海が呑み込むもの
轟音だった。
地下室の奥から押し寄せた海水が、暗闇ごと三人を飲み込む。
「うわっ!!」
遼は壁へ叩きつけられた。
冷たい。
塩辛い。
息ができない。
濁流の中で懐中電灯が回転し、光が乱れた。
澪の悲鳴。
木舟がひっくり返る音。
佐伯の怒鳴り声。
地下室は一瞬で海になった。
遼は必死に壁へしがみつく。
水位は腰まで上がっている。
だが流れは急に止まった。
まるで、何かが“引いた”ように。
「……なんだよ、これ」
息を切らしながら周囲を見る。
海水は残っている。
しかし、それ以上増えない。
地下室の奥だけが真っ黒だった。
澪は震えながら座り込んでいる。
佐伯は荒く息を吐き、奥を睨み続けていた。
「……見たか」
老人の声は掠れていた。
「今の」
遼は答えない。
見た。
確かに見た。
水が流れ込んだ瞬間、奥の暗闇に“何か”がいた。
巨大な影。
人ではない。
だが魚とも違う。
そして、その中心に――白い女が立っていた。
「何なんだ、あれ」
佐伯はゆっくり目を閉じた。
「だから言うたんじゃ……」
彼は震える手で煙草を取り出したが、濡れていて火が点かなかった。
苛立ったように握り潰す。
「ここは終わっとらんのだ」
「終わってない?」
佐伯は答えず、地下室の壁を見た。
遼も視線を向ける。
今まで気づかなかった。
壁に無数の傷がある。
縦に。
横に。
まるで誰かが爪で引っ掻いたような跡。
そして、その中心に文字が刻まれていた。
《カエセ》
澪が小さく息を呑む。
「……誰がこんなの」
佐伯が低く言った。
「美咲じゃ」
地下室が静まり返る。
「三十年前、死んだ女だ」
遼は眉をひそめた。
「事故で?」
佐伯は苦く笑った。
「事故ならよかった」
その言葉に、空気が変わった。
老人は観念したように壁へ寄りかかる。
「……あの日な」
遠くで波の音がした。
「沈んだのは漁船だけやない」
佐伯の目は、もう地下室ではなく、三十年前を見ていた。
「祭りの日だった」
静かな声。
「島じゅう酒飲んで騒いどった。景気も良かった。港は人で溢れとった」
遼は黙って聞く。
「美咲は島一番の美人でな。男はみんな惚れとった」
澪が小さく呟く。
「……聞いたことある」
「東京から来た画家と付き合っとった」
佐伯は続ける。
「島の外へ出る言うてた」
だが、その夜。
画家の男は消えた。
そして翌朝、漁船が沖で転覆していた。
死者三人。
行方不明一人。
「その一人が、美咲や」
地下室の空気が重くなる。
遼は訊いた。
「じゃあ、あの写真の男たちは」
佐伯の顔が曇る。
「……わしらや」
沈黙。
「恒一もおった。お前の祖父もな」
遼は息を止めた。
「祖父が?」
佐伯は頷いた。
「わしら四人で船を出した」
「何のために」
佐伯は答えなかった。
代わりに、濡れた写真を見つめる。
「全部、間違えたんや」
その時だった。
――コツ。
階段の上で音がした。
三人とも顔を上げる。
誰かいる。
ゆっくり。
ゆっくり。
足音が降りてくる。
コツ。
コツ。
裸足の音。
遼はスマホのライトを向けた。
階段の途中に、白い足が見えた。
女だった。
長い黒髪。
濡れたワンピース。
今度ははっきり見える。
顔も。
青白い肌。
唇のない口。
そして。
目がなかった。
真っ黒な空洞だけが、こちらを見ていた。
澪が悲鳴を上げる。
佐伯が叫んだ。
「見るな!!」
だが遼は動けなかった。
女が、ゆっくり笑ったからだ。
裂けた口が、不自然に横へ広がる。
そして。
「やっと見つけた」
その声は。
なぜか遼へ向けられていた。




