第四章 凪の亡霊
遼の喉が鳴った。
地下室の奥に立つ女は、微動だにしなかった。
白いワンピースは水を吸ったように身体へ張り付き、長い黒髪の先から雫が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
その音だけが、地下室に響く。
懐中電灯の光は確かに女を照らしていた。
なのに輪郭が曖昧だった。
まるで海水の向こう側を見ているように。
「……誰だ」
遼が声を絞り出す。
女は答えない。
ただ、ゆっくり右手を伸ばした。
白い指先が、写真を指している。
「返して……」
今度ははっきり聞こえた。
若い女の声。
澪が遼の腕を掴む。
「行こう……!」
だが遼は動けなかった。
女の顔を見た瞬間、妙な違和感が走ったからだ。
――知っている。
どこかで見た顔だった。
次の瞬間。
地下室の灯りが、ふっと消えた。
完全な闇。
澪の悲鳴。
遼は咄嗟にスマホを取り出しライトを点ける。
だが。
もう女はいなかった。
聞こえるのは、自分たちの荒い息だけ。
「……消えた?」
澪の声が震える。
遼は周囲を照らした。
地下室には出口などない。
隠れる場所もない。
なのに、確かにいた。
床を見る。
海水だけが残っていた。
まるで今そこに誰か立っていたように。
遼は写真を見下ろした。
濡れている。
さっきまでは乾いていたはずなのに。
写真の裏面に、滲んだ文字が浮かんでいた。
《美咲 最後の夏》
「美咲……」
澪が呟く。
「知ってるのか?」
彼女は唇を噛んだ。
「島で昔、噂になった人」
「噂?」
「事故で死んだって言われてる」
風が吹いた。
いや。
地下室に風など吹くはずがない。
だが、奥の暗闇から冷気が流れてきた。
遼は光を向ける。
岩壁の隙間。
その奥に、さらに通路が続いている。
「まだ奥がある……」
「やめて」
澪が強く言った。
「これ以上は危ない」
「でも――」
「お願い」
彼女の顔色は真っ白だった。
遼は一瞬迷った。
その時だった。
上から声が響いた。
「おい!!」
男の怒鳴り声。
続いて、激しい足音。
懐中電灯の光が地下室へ差し込む。
現れたのは、島の老人――佐伯清治だった。
「何しとる!!」
怒鳴る声が岩壁に反響する。
佐伯は息を切らしながら階段を降りてきた。
その目は異様なほど険しい。
「ここへ入るな言うたろうが!」
「言われてませんけど」
遼が言い返す。
だが佐伯は聞いていない。
地下室を見回し、写真を見た瞬間、顔色が変わった。
「それをどこで見つけた」
「舟の中です」
佐伯は乱暴に写真を奪い取った。
震える手。
老人の反応は、恐怖そのものだった。
「まだ残っとったんか……」
「この人、誰なんです」
佐伯は答えない。
代わりに、地下室の奥を睨んでいた。
まるで何かを警戒するように。
「出ろ」
低い声。
「今すぐここを出ろ」
「でも――」
「死にたいんか!!」
怒号が飛んだ。
澪が肩を震わせる。
遼も思わず黙った。
佐伯は地下室の奥を見たまま、絞り出すように言った。
「海はな……」
しわがれた声。
「返してくれんのだ」
静寂。
「一度飲み込んだもんを」
その瞬間だった。
地下室の奥から。
ザブン……
明らかな水音が響いた。
三人とも凍りつく。
海などない。
なのに。
暗闇の向こうで、何か巨大なものが動いた音がした。
ザ……ッ。
岩肌を擦る音。
そして。
女の笑い声。
「……っ!」
澪が遼にしがみつく。
佐伯の顔から血の気が消えた。
「来るぞ」
「何が――」
言い終わる前に。
地下室の奥から、大量の海水が一気に流れ込んできた。




