第三章 赤い記事
蔵の中は、潮が腐ったような匂いに満ちていた。
遼は懐中電灯を握ったまま、一歩ずつ中へ入る。
床板は湿気で軋み、天井には古い蜘蛛の巣が垂れている。
壁一面を埋め尽くす新聞記事。
黄ばんだ紙の端は丸まり、何十年もの時間が染み込んでいた。
昭和六十三年。
平成元年。
見出しには、同じ言葉が何度も並んでいる。
『瀬戸内沖で漁船転覆』
『地元漁師三名死亡』
『濃霧による事故か』
『夜間航行の危険性』
だが、その上から赤いインクで乱暴に線が引かれていた。
事故
嘘
沈めた
殺したのは誰だ
遼は眉をしかめた。
「……祖父が書いたのか?」
「違うと思う」
後ろから澪の声。
彼女も恐る恐る蔵へ入ってきていた。
「おじいさん、こんな字じゃない」
懐中電灯の光が奥へ伸びる。
すると、小さな机が見えた。
その上に、一冊の古びたノート。
革表紙は湿気で波打っている。
遼は手に取った。
表紙には掠れた文字。
《八月十二日 夜潮記録》
「航海日誌……?」
ページを開く。
達筆な字が並んでいた。
『風向き、西』
『視界、悪し』
『夜半、沖に灯り一つ確認』
『あの船ではない』
『あれは戻ってきた』
遼はページをめくる。
最後の頁だけ、文字が乱れていた。
『見てしまった』
『誰にも話せない』
『あの女が海から』
そこで文章は途切れていた。
突然。
バタン!!
蔵の扉が閉まった。
澪が短く悲鳴を上げる。
「っ!」
蔵の中が完全な暗闇になる。
遼は咄嗟に懐中電灯を向けた。
光の筋の中で、埃が舞っている。
「誰かいるのか!?」
返事はない。
だが。
――コツ。
奥で、何かが鳴った。
人の足音のような、小さな音。
遼は光を向ける。
そこには古い木箱しかない。
しかし次の瞬間。
白いものが、箱の陰へ消えた。
「……今、見た?」
澪の声が震えていた。
遼は答えなかった。
自分も見たからだ。
白い服。
長い髪。
女の後ろ姿。
息を飲む。
すると、蔵の奥から、かすかに水音がした。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
あり得ない。
ここは陸だ。
海から離れている。
なのに、どこかで水が揺れている。
遼は懐中電灯を向けながら進んだ。
木箱をどかす。
その下に、床板とは違う新しい板がある。
「……なんだこれ」
板の端に指を掛け、持ち上げる。
重い。
湿っている。
ようやく隙間ができた瞬間、生臭い空気が吹き上がった。
地下だ。
蔵の下に空間がある。
澪が顔をしかめた。
「こんなの……知らない」
遼はライトを向けた。
細い階段が下へ続いている。
海の底みたいな暗闇。
ぽちゃん。
また水音。
遼はゆっくり降り始めた。
階段は湿って滑る。
空気が冷たい。
数段降りるごとに、潮の匂いが強くなっていく。
そして最下部へ辿り着いた時、遼は息を止めた。
地下室だった。
岩を掘って作られた空間。
壁際には古い漁具。
錆びたランプ。
そして中央に、小さな木舟が置かれている。
まるで今でも使われているように。
舟の底には海水が溜まり、ゆらゆら揺れていた。
その中に、一枚の写真が浮かんでいる。
遼は拾い上げた。
白黒写真。
四人の男が写っている。
漁船の前で笑っている。
そのうち一人は、若い頃の祖父だった。
そしてもう一人。
遼の目が止まる。
「……これ」
澪が写真を覗き込む。
「佐伯さん……?」
島の老人、佐伯清治。
今よりずっと若い。
だが問題は、その隣だった。
写真の端に、白いワンピース姿の女が立っている。
長い髪。
表情はぼやけて見えない。
しかし。
胸元だけが、不自然に黒く塗り潰されていた。
その瞬間。
地下室の奥から、女の声がした。
「返して……」
澪が凍りつく。
遼は振り向いた。
暗闇の中。
海水のように濡れた白い服の女が、立っていた。




