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『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


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第二章 夏蜜柑の家

夜の島は、驚くほど暗かった。


東京なら、どれほど遅い時間でもどこかが光っている。コンビニ、自販機、マンションの窓、車のヘッドライト。人間の気配が、街を眠らせない。


だが志々島では、日が落ちると世界が海へ沈んでいく。


三上遼は縁側に腰を下ろし、古びたグラスに麦茶を注いだ。


庭では風鈴が鳴っている。


虫の声が波のように重なり、遠くで船のエンジン音が低く響いた。


祖父の家は、不思議な匂いがした。


畳と線香、古い木材、それから微かに柑橘の香り。


押し入れを開けると、丁寧に畳まれた浴衣や、黄ばんだ新聞が残されていた。台所には古い湯呑みが二つ。


まるで今でも誰かが暮らしているようだった。


遼は煙草を探したが、もう東京駅で最後の一本を潰していたことを思い出した。


代わりにスマホを見る。


電波は一本。


通知はゼロ。


画面に映る自分の顔は、思っていた以上に疲れていた。


その時だった。


――コン、コン。


玄関を叩く音。


時計を見ると、九時を回っている。


「はい」


戸を開けると、朝倉澪が立っていた。


片手に鍋を持っている。


「こんばんは」


「どうしたんですか?」


「差し入れです」


彼女は当たり前のように靴を脱ぎ、台所へ入っていった。


「島って、誰か来ると食べ物持ってくる文化あるんです」


鍋の蓋を開ける。


湯気と一緒に、生姜と醤油の香りが立ち上がった。


「鯛めしです」


「うまそう……」


「今日、港でいい真鯛が揚がったので」


澪は慣れた手つきで茶碗によそった。


遼は一口食べ、しばらく黙った。


「……すごいな」


「よかった」


鯛の旨味が米に染みている。


東京で食べていた弁当とは、食べ物の“生き方”が違う気がした。


澪は縁側へ移動し、海を眺めた。


「静かでしょう」


「静かすぎるくらいです」


「最初はみんなそう言います」


風が吹く。


どこかで犬が吠えた。


「でも、そのうち離れられなくなる」


彼女は海を見たまま言った。


「この島」


遼は答えなかった。


離れられない場所など、この世にあるのだろうかと思った。


人は皆、何かから逃げて生きている。


自分もそうだ。


編集部から。


失敗から。


人間関係から。


そして、多分――自分自身から。


「おじいさん、優しい人でしたよ」


澪がぽつりと言った。


「……そうですか」


「毎朝、港のゴミ拾いしてました」


遼は少し意外だった。


祖父・恒一は無口な男だった記憶しかない。


子供の頃に数回会っただけだ。


何を考えているのか分からず、笑った顔もほとんど覚えていない。


「遼さんに似てます」


「俺が?」


「黙ってるところ」


「それ褒めてます?」


「半分くらい」


澪は笑った。


その時、庭の奥でガタン、と音がした。


二人とも同時に顔を向ける。


暗闇の中、古い蔵がぼんやり浮かんでいた。


風は止んでいる。


なのに、蔵の扉だけがわずかに揺れていた。


遼は立ち上がる。


「……誰かいる?」


返事はない。


澪の表情が硬くなった。


「やめたほうがいいです」


「え?」


「夜に近づかないほうが」


「なんで」


彼女は少し迷い、それから小さな声で言った。


「昔、あそこで人が見つかったんです」


遼は眉をひそめた。


「事故じゃなく?」


澪は答えない。


代わりに、暗い海を見つめていた。


「この島、昔はもっと人がいたんです」


遠くで波の音がした。


「造船も漁業も盛んで、夏祭りなんて歩けないくらい人がいて」


彼女の声は静かだった。


「でも三十年前の事故のあと、みんな少しずつ出ていった」


「何があったんです?」


澪は唇を結んだ。


「漁船が沈んだんです」


風鈴が鳴る。


「死んだのは三人」


遼は黙って聞いていた。


「でも、一人だけ遺体が見つからなかった」


その瞬間だった。


ギィ……


庭の蔵が、ゆっくり開いた。


誰も触れていない。


暗闇の中、黒い隙間だけが口を開けている。


澪の顔から血の気が引いた。


「……嘘」


遼は懐中電灯を掴み、庭へ降りた。


「待って!」


澪の声を背に、草を踏みしめる。


蔵の前まで来ると、空気が妙に冷たかった。


木の匂い。


湿気。


そして、古い海水のような臭い。


遼は扉に手を掛ける。


懐中電灯の光が、暗闇を切り裂いた。


その奥に――


大量の古い新聞記事が、壁一面に貼られていた。


すべて同じ日付。


そして中央には、赤字でこう書かれていた。


『あの日、海に沈んだのは、本当に三人だけか?』

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