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『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


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第一章 潮の匂い

登場人物

三上 遼(34)


元編集者。東京生活に疲弊し、祖父の遺品整理のため島へ戻る。合理的な性格だが、人との距離感を測れない。


朝倉 澪(29)


島の診療所で働く看護師。Uターン移住者。明るく振る舞うが、兄を海で亡くしている。


佐伯 清治(72)


元漁師。島で最も古くから海を知る男。事故について何かを知っている。


三上 恒一


遼の祖父。故人。古民家と蔵を遺した。生前ほとんど事故について語らなかった。


フェリーが波を割る音は、都会の電車よりずっと静かなのに、不思議と耳に残った。


船尾に立った三上遼は、潮風に吹かれながら、小さく煙草を握り潰した。


瀬戸内海は、()いでいた。


鏡のような海面の向こうに、いくつもの島影が浮かぶ。濃淡の違う青が幾重にも重なり、その間を白い航跡だけがまっすぐ伸びていく。


東京では、空を見ることすら減っていた。


毎朝、満員電車に押し込まれ、数字と締切に追われ、夜にはコンビニの灯りの下で缶コーヒーを飲む。誰かに必要とされている感覚だけを頼りに働いていたが、その糸が切れるのは一瞬だった。


「記事を止めたのはお前か?」


編集長の声は今でも耳に残っている。


遼は答えなかった。


答えられなかった。


結果として、その特集は世に出ず、担当していた作家は別の出版社へ移った。遼は責任を取る形で退職した。


それから二ヶ月。


スマホの通知はほとんど鳴らなくなった。


鳴るのは、不動産会社と、母親くらいだ。


「まもなく、志々島港へ到着します」


船内アナウンスが流れる。


遼は顔を上げた。


小さな港が見えた。防波堤には釣り人が数人。古びた漁船。赤い錆の浮いたクレーン。斜面にへばりつくような民家。山の緑。


そのどれもが、時間から取り残されているように見えた。


祖父が死んだのは、春だった。


通夜にも葬式にも遼は出ていない。


東京で仕事を抱え、「落ち着いたら帰る」とだけ言っていた。


結局、帰れなかった。


いや。


帰らなかったのだ。


フェリーを降りると、潮の匂いが一気に濃くなった。


港の待合所は、古い扇風機が回るだけの小さな建物だった。壁には色褪せた観光ポスターが貼られている。


“日本の地中海・せとうちへ”


その文字が、妙に白々しかった。


「三上さん?」


振り返ると、白いシャツに紺のカーディガンを羽織った女性が立っていた。


肩までの黒髪。


日焼けした肌。


年齢は三十前後だろうか。


「朝倉です。診療所の」


「ああ……」


「鍵、預かってます。おじいさんの家の」


彼女は小さく笑った。


「坂の上なんで、覚悟してください」


島には信号がなかった。


コンビニもなかった。


あるのは、坂道と、猫と、海だけだった。


石段を上がる途中、遼は何度も立ち止まった。


「運動不足ですね」


「東京じゃ歩いてたんですけど」


「東京の人、そう言いますよね」


朝倉澪は笑った。


風が吹くたび、遠くで船のエンジン音が聞こえる。


民家の軒先にはタコが干され、路地には柑橘の匂いが漂っていた。


「みかん、食べます?」


「え?」


「島の。甘いですよ」


彼女は庭先の籠から一つ取って投げて寄越した。


遼は受け取り、皮を剥く。


香りが広がった。


東京で食べていたものとは、まるで違う匂いだった。


「……うまい」


「でしょう?」


澪は少し誇らしげに言った。


その顔を見た瞬間、遼はなぜか胸の奥が少し痛んだ。


祖父の家は、山の中腹にあった。


瓦屋根の古い平屋。


縁側から海が見える。


柱は黒く艶を帯び、庭には柿の木が一本立っていた。


「電気は通ってます。水道も」


澪は鍵を渡しながら言った。


「でも蔵は、まだ開けてません」


「蔵?」


「おじいさん、“絶対開けるな”って言ってたんです」


遼は眉をひそめた。


「俺にも?」


「誰にも」


風が止んだ。


一瞬だけ、蝉の声も消えた気がした。


澪は古びた蔵を見つめる。


その目に、わずかな緊張が浮かんでいた。


「島の人、あの蔵の話すると黙るんです」


「どうして?」


澪は答えなかった。


代わりに、小さく言った。


「三十年前、この島で人が死んだから」


瀬戸内の海は、相変わらず穏やかだった。


まるで、何も知らない顔をして。

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