表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/18

第十八章 帰る場所

港には、朝の光が満ちていた。


白い定期船がゆっくり接岸する。


甲板には数人の乗客。


買い物帰りの老人。


段ボールを抱えた青年。


そして旅行者らしい夫婦。


日常の船だった。


だが遼にとっては、人生の分岐点みたいに見えた。


「乗るなら、あれですね」


澪が言う。


遼は頷きながらも、返事をしなかった。


船のエンジン音が低く響く。


東京へ戻れば、また以前の生活だ。


仕事を探し。


人混みに紛れ。


忙しさの中へ戻る。


それも現実だった。


逃げ続けるわけにはいかない。


けれど。


遼は島を見渡す。


坂道。


石垣。


みかん畑。


潮風。


ここには、“人の時間”が流れていた。


急がない時間。


誰かを覚えている時間。


その時。


「遼くん!」


食堂しおさいのおばちゃんが手を振っていた。


「帰るの!?」


周囲の島民たちもこちらを見る。


遼は少し困ったように笑う。


「……まだ悩んでます」


「なんだいそれ!」


笑いが起きた。


「島向いてるよ、あんた!」


「優柔不断じゃの!」


遼もつられて笑う。


東京では、こんなふうに他人へ笑われることが嫌だった。


だが今は違う。


ここには悪意がない。


ただ、人が人を見ているだけだ。


澪が小さく言う。


「この島、向いてるかもしれませんね」


「それ、褒めてます?」


「半分くらい」


船員が声を張る。


「出港しまーす!」


タラップが上がり始める。


乗客たちが急いで船へ乗り込む。


遼は動かなかった。


澪も何も言わない。


ただ隣に立っている。


船の汽笛。


白い波。


ゆっくり船が離れていく。


遼は、それを見送った。


澪が目を瞬かせる。


「……いいんですか?」


遼は小さく息を吐いた。


「今は、こっちにいたいです」


自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。


島の風が吹く。


どこかで鳥が鳴いた。


澪は笑う。


その笑顔を見た瞬間、遼はようやく実感した。


自分は、“戻る”だけじゃなく、“ここで生きたい”と思い始めているのだと。


「じゃあ仕事探さないとですね」


「仕事……あります?」


「人手不足なので、いくらでも」


「怖い言い方するなぁ」


「まず漁港」


「ハードル高い」


「あと観光協会」


「それっぽい」


「それと――」


澪は少しだけ視線を逸らす。


「空き家、隣ありますよ」


遼は吹き出した。


「営業うまいですね」


「島民なので」


二人で笑う。


その時。


港の海面が、きらりと光った。


遼はふと目を向ける。


波の向こう。


ほんの一瞬だけ。


白いワンピースが見えた気がした。


だがすぐに、朝日に溶けて消える。


遼は静かに頭を下げた。


ありがとう、と。


心の中で。


海は何も答えない。


ただ穏やかに凪いでいる。


瀬戸内の海。


多くを飲み込み、多くを残してきた海。


けれど今、その水面は優しく光っていた。


澪が歩き出す。


「お昼、うどん食べに行きません?」


「島にうどん屋あるんですか?」


「香川近いので」


「それ絶対理由違うでしょ」


「瀬戸内はだいたいうどんです」


そんな他愛ない会話をしながら、二人は坂道を上っていく。


夏空が広がっていた。


青く、高く、どこまでも。


その空の下で。


止まっていた時間は、静かに動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ