表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/18

最終話 凪の向こう


五年後――。


瀬戸内の春は、やわらかい。


海は穏やかに凪ぎ、島には柑橘の香りが漂っていた。


志々島の港へ、一隻の定期船が入ってくる。


白い波を引きながら、ゆっくりと。


「うわぁ……綺麗」


甲板で、若い女性が声を上げる。


隣の恋人らしき男も、スマホを構えて海を撮っていた。


船が接岸する。


港には、小さな木の看板。


《海辺の書房 凪》


女性が嬉しそうに指差す。


「あれ、雑誌に載ってたとこじゃない?」


古民家を改装した、小さな書店兼喫茶店。


瀬戸内の景色と、自家焙煎の珈琲、島の本を置いている店として、少しずつ有名になっていた。


店の引き戸が開く。


「いらっしゃいませ」


遼だった。


以前より日に焼けている。


髪も少し伸びた。


けれど表情は、東京にいた頃よりずっと穏やかだった。


店の中には、本棚と木の机。


窓の向こうには、瀬戸内海。


島の時間が、そのまま流れているような空間だった。


「景色すごいですね!」


旅行客が窓際へ駆け寄る。


遼は笑う。


「夕方はもっと綺麗ですよ」


奥から珈琲の香りが漂う。


「また勝手に宣伝してる」


澪が現れた。


エプロン姿。


髪を後ろで束ねている。


自然な動きで、遼の隣へ立つ。


旅行客の女性が小声で言った。


「夫婦かな」


澪が少しだけ咳払いする。


遼は聞こえないふりをした。


窓の外では、子供たちが港を走っている。


笑い声。


船の音。


風鈴。


穏やかな午後。


五年前、止まっていた時間は、確かに流れ始めていた。


店の一角には、小さな展示棚があった。


古い写真。


祭りの提灯。


港の風景。


そして、一冊の本。


表紙にはタイトル。


『凪の亡霊』


旅行客の男が訊く。


「これ、この島の話なんですか?」


遼は少しだけ笑った。


「……さぁ、どうでしょう」


実際には、かなり売れた。


東京の出版社から声も掛かった。


映像化の話まで来ている。


だが遼は、大きく生活を変えなかった。


この島で、本を書きながら暮らしている。


海を見て。


人と話して。


時々、過去を思い出しながら。


それで十分だった。


夕方。


店を閉めたあと、遼は港へ降りる。


提灯の準備が始まっていた。


今年も祭りが近い。


澪が隣へ来る。


「今年、人増えそうですね」


「雑誌効果?」


「あと本」


遼は苦笑する。


「島の人に、印税あるなら祭りに出せって言われました」


「正論ですね」


風が吹く。


瀬戸内の夕暮れ。


空と海の境目が、橙色へ溶けていく。


遼は静かに海を見る。


あの日と同じ海。


だがもう、怖くはなかった。


その時。


港の先に、白い人影が見えた。


遼は目を細める。


白いワンピース。


長い髪。


その隣には、漁師姿の男。


二人並んで、海を見ている。


美咲と。


祖父・恒一だった。


澪は気づいていない。


遼だけが立ち止まる。


美咲がこちらを見る。


穏やかな笑顔。


もう悲しみはなかった。


恒一も、小さく頷く。


夕陽が強くなる。


次の瞬間。


二人の姿は、光へ溶けて消えた。


波だけが残る。


静かな凪。


遼は小さく頭を下げた。


「……帰れたんだな」


潮風が吹き抜ける。


遠くで祭囃子の練習が聞こえる。


子供たちの笑い声。


提灯の灯り。


人は、完全には過去を消せない。


後悔も、悲しみも、愛した記憶も残り続ける。


それでも。


人はまた、誰かと笑い合える。


海のように。


流れながら。


季節を巡りながら。


澪が遼の袖を軽く引く。


「帰りましょうか」


遼は頷く。


二人で坂道を上っていく。


その背中を、瀬戸内の夕陽が長く照らしていた。


海は今日も凪いでいる。


優しく。


静かに。


まるで、すべてを見守るように。


――完――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ