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『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


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第十七章 潮の手紙

祭りが終わった翌朝。


島は、少しだけ静かだった。


昨夜の賑わいが嘘のように、港には波の音だけが残っている。


提灯はまだ吊られたまま、朝風に揺れていた。


遼は祖父の家の縁側で目を覚ます。


蝉の声。


潮の匂い。


遠くで漁船のエンジン音。


瀬戸内の朝だった。


ぼんやり海を眺めていると、玄関から声がする。


「起きてます?」


澪だった。


今日は私服姿だ。


白いブラウスにジーンズ。


浴衣とは違う、年相応の柔らかさがあった。


「どうしたんですか、朝から」


「これ」


澪が差し出したのは、一冊のノートだった。


表紙は紺色。


かなり古い。


「蔵の片付けしてたら出てきました」


遼は受け取る。


開いた瞬間、息が止まった。


祖父の字だった。


日記帳。


ページの端には、《平成元年》の文字。


つまり、美咲が亡くなった翌年から書かれている。


遼はゆっくりページをめくる。


《海が静かすぎる》


最初の一文。


《静かな日は、逆に怖い》


潮風がページを揺らす。


《夢を見る》


《白い服》


《助けを呼ぶ声》


短い文章ばかりだった。


まるで、長い文を書く気力もなかったみたいに。


遼は次のページをめくる。


《祭りをやめた》


《あの日の音を聞くと、息ができん》


さらに先。


《佐伯が酒をやめた》


《誰も、海へ近づかなくなった》


島全体が、三十年間止まっていたのだ。


罪悪感と恐怖で。


遼はあるページで手を止める。


《今日、東京へ行った》


初めて書かれた長い文章だった。


《駅には人がおった》


《誰も人のことを見てなかった》


《少し羨ましかった》


遼は目を伏せる。


祖父もまた、島に息苦しさを感じていたのだ。


けれど離れられなかった。


罪を置いていけなかったから。


最後のページ。


そこだけ文字が綺麗だった。


《もし遼が来たら》


遼の喉が鳴る。


《あいつはわしと違って、ちゃんと遠くへ行ける人間や》


風が吹く。


《じゃが、帰る場所くらいは残してやりたい》


その文字で日記は終わっていた。


遼はしばらく動けなかった。


澪が隣へ座る。


「……優しいですね」


遼は小さく笑う。


「不器用だったんだと思います」


祖父は最後まで、きちんと愛情を伝えられなかった。


でも残そうとしていた。


蔵も。


手紙も。


祭りも。


全部、“帰る場所”だったのだ。


その時。


玄関先で猫が鳴いた。


見ると、白黒の小さな猫が座っている。


澪が目を細める。


「最近よく来るんですよ」


猫は遼を見ると、ゆっくり縁側へ上がってきた。


そして。


遼の足元へ、何かを落とした。


小さな貝殻だった。


薄桃色の、綺麗な貝。


遼は拾い上げる。


その瞬間。


潮の匂いと一緒に、ふっと声が聞こえた気がした。


――ありがとう。


遼は海を見る。


波は穏やかだった。


もう、あの黒い海はない。


けれど。


完全に消えたわけでもないのだろう。


海は忘れない。


人も同じだ。


悲しみも。


愛した記憶も。


全部抱えながら、生きていく。


澪が立ち上がる。


「今日、船出ますよ」


「船?」


「本土行き」


遼は少しだけ黙る。


東京へ戻るなら、その船だった。


澪は続ける。


「……見送り、行きます?」


その言葉には、“帰るなら”という意味が含まれていた。


遼は海を見る。


朝日。


静かな波。


提灯の残る港。


そして祖父の家。


ここへ来る前の自分なら、迷わず東京へ戻っていた。


だが今は。


「……どうしようかな」


澪が笑った。


「また島っぽい返事」


その時、港から汽笛が鳴る。


白い船が、ゆっくり港へ入ってきていた。


潮の流れのように。


人もまた、どこかへ向かっていく。

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