第十六章 夏の灯
祭りの日。
志々島は、朝から潮と熱気に包まれていた。
港には屋台が並び、焼きイカの匂いが漂う。
太鼓の音。
子供たちの笑い声。
提灯が風に揺れ、海へ赤い光を落としていた。
遼は港の入口で立ち止まる。
「……すごい人ですね」
「島中集まってますから」
澪は浴衣姿だった。
淡い水色に、小さな白い花柄。
いつもより少し大人びて見える。
遼は思わず見惚れた。
澪が気づいて笑う。
「何ですか」
「いや……似合うなって」
その瞬間、澪の耳が赤くなる。
「急に言わないでください」
港の向こうでは、老人たちが酒を飲みながら笑っている。
三十年前、止まってしまった祭り。
だが今夜、島はもう一度動き始めていた。
遼は提灯を見上げる。
風に揺れる灯り。
あの夜とは違う。
同じ祭りなのに、空気がまるで違った。
「怖くないんですか?」
澪が小さく訊いた。
遼は海を見る。
夜の瀬戸内。
静かな黒い水面。
確かに、少しだけ怖かった。
海鬼は消えた。
だが海そのものが変わったわけではない。
海は今も命を奪う。
人は今も後悔する。
それでも。
「怖いですよ」
遼は答える。
「でも、多分それでいいんだと思います」
澪が静かに頷く。
恐れながら生きる。
失うかもしれないと思いながら、人を好きになる。
それが、生きるということなのかもしれない。
その時。
太鼓が大きく鳴った。
ドン――!
祭りの開始だ。
歓声が上がる。
提灯に灯りがともる。
港が橙色へ染まった。
海面に、無数の光が揺れる。
まるで星空みたいだった。
「綺麗……」
澪が呟く。
遼も頷く。
そして気づく。
あの夜、美咲が最後に見たかったのも、きっとこういう景色だったのだ。
人が笑っている場所。
帰る場所。
祭りの中心では、盆踊りが始まっていた。
老人も子供も、ぎこちなく輪になる。
遼は苦笑する。
「踊るんですか、これ」
「もちろん」
「いや、無理ですって」
「島では逃げられません」
結局、引っ張られた。
見よう見まねで踊る。
手を上げる。
足をずらす。
周囲のおばちゃんたちが笑う。
「硬い硬い!」
「東京の踊りじゃないよ!」
遼も笑ってしまう。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
空を見上げる。
星が出ていた。
瀬戸内の夜空は、東京よりずっと広い。
潮風が吹き抜ける。
その時だった。
ふっと。
港の端に、白いワンピースが見えた。
遼の動きが止まる。
提灯の下。
美咲が立っていた。
若いままの姿で。
穏やかに笑っている。
遼は息を呑む。
だが、不思議と怖くなかった。
美咲は小さく会釈する。
その隣には、祖父・恒一もいた。
若い頃の姿だった。
二人並んで、海を見ている。
澪は気づいていない。
遼だけに見えている。
恒一が遼を見る。
そして、静かに頷いた。
――ありがとう。
そう言われた気がした。
次の瞬間。
潮風が吹く。
提灯が揺れる。
気づけば、二人の姿は消えていた。
残ったのは、穏やかな海だけ。
遼は静かに目を閉じる。
過去は消えない。
後悔も、愛した記憶も。
全部、人の中へ残り続ける。
けれど。
それでも人は、前へ進ける。
祭囃子が夜へ響く。
笑い声。
太鼓。
波の音。
瀬戸内の夏は、静かに更けていった。




