第十三章 凪の朝
目を覚ますと、潮の匂いがした。
遼はゆっくり瞼を開ける。
木の天井。
古びた柱。
障子越しに差し込む朝の光。
祖父の家だった。
「……戻ったのか」
身体を起こす。
全身が鉛のように重い。
夢だったのではないか。
そんな考えが一瞬よぎる。
だが、濡れた服と、掌に残る櫂の感触が、それを否定した。
縁側から声がする。
「起きました?」
澪だった。
彼女は湯呑みを二つ持って座っている。
海が見えた。
穏やかな瀬戸内海。
昨日までの出来事が嘘のように静かだった。
遼は縁側へ出る。
「……どれくらい寝てた?」
「半日くらい」
澪は湯呑みを渡した。
温かいほうじ茶。
湯気が揺れる。
「港の人たち、大騒ぎでしたよ」
「蔵が崩れたから?」
「それもあるけど」
澪は少し困ったように笑う。
「海が、一晩で変わったんです」
遼は眉をひそめた。
「変わった?」
「流木とか、ゴミとか、全部なくなってた」
風が吹く。
遠くで船のエンジン音が聞こえた。
「あと」
澪は続ける。
「昨日まで濁ってた港の水、すごく綺麗になってた」
遼は海を見る。
確かに透明だった。
朝日を受け、青く輝いている。
まるで何かが浄化されたように。
沈黙。
しばらく二人で海を眺める。
やがて遼が訊いた。
「佐伯さんは」
澪の表情が曇る。
「……見つかってません」
遼は目を閉じた。
だが不思議と、“消えた”気はしなかった。
きっと佐伯も。
祖父も。
海のどこかで、ようやく止まっていた時間を終えたのだ。
その時。
庭でカサリ、と音がした。
遼が視線を向ける。
柿の木の下に、一つのみかんが置かれていた。
鮮やかな橙色。
昨日まではなかった。
澪も気づく。
「……誰が置いたんだろ」
遼は答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
潮風が吹き抜ける。
どこかで猫が鳴いた。
島の日常が戻ってきている。
遼は湯呑みを置く。
「東京、戻るんですか?」
澪が訊く。
遼はすぐには答えなかった。
海を見る。
朝の光。
港。
漁船。
坂道。
この数日で、自分は何かを失い、何かを取り戻した気がしていた。
「……まだ分からない」
正直な答えだった。
澪は小さく笑う。
「島の人っぽい返事」
「そうですか?」
「うん。みんな、“急がない”から」
瀬戸内の時間は遅い。
潮の流れみたいに、静かだ。
東京では、それが怖かった。
止まることが。
取り残されることが。
だが今は少し違う。
立ち止まることで見える景色もあるのだと知った。
その時。
玄関に古い郵便受けの音がした。
遼は立ち上がる。
投函されていたのは、一通の封筒だった。
差出人はない。
中を見る。
一枚の便箋。
達筆な文字。
――遼へ
そこで遼の呼吸が止まった。
祖父の字だった。
『人は、海のようには生きられん』
静かな書き出し。
『止まりたくても流れてしまう』
遼は黙って読み進める。
『わしは止まってしもうた』
『後悔に』
『じゃがお前は違う』
風がページを揺らす。
『進め』
『誰かを想ったままでも、人は前へ行ける』
最後の一文。
『瀬戸内の海は、凪の日ばかりじゃない』
遼は便箋を握りしめた。
涙は出なかった。
その代わり、胸の奥で何かが静かにほどけていく気がした。
澪が隣へ座る。
二人で海を見る。
朝日が水面に伸びていた。
その光の先に、一瞬だけ。
白いワンピースの後ろ姿が見えた気がした。
だが次の波で、もう消えていた。




