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『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


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第十二章 灯りの向こう

黒い津波が迫る。


海そのものが怒り狂っていた。


『カエセェェェ!!』


無数の亡者の声が夜の海を震わせる。


舟は小さい。


あまりにも小さい。


巨大な海鬼に呑まれれば、一瞬で終わる。


澪が舟の縁を掴み、叫んだ。


「遼さん!!」


遼は櫂を握る。


いつの間にか舟に一本だけ置かれていた古い木の櫂。


祖父が使っていたものだと、なぜか分かった。


海鬼がさらに近づく。


黒い波の中で、亡者たちの顔が叫んでいる。


苦しみ。


怒り。


孤独。


誰にも知られず消えていった人々。


その感情が、海鬼を生んでいた。


遼は歯を食いしばる。


「……返さない」


海鬼が一瞬止まった。


遼は立ち上がる。


「もう、誰も海に沈めない」


自分でも不思議だった。


東京にいた頃なら、こんな言葉は絶対に言えなかった。


責任から逃げて。


人から距離を置いて。


何も背負わないように生きてきた。


だが今は違う。


この島で。


人の想いを知った。


海に沈んだ時間を知った。


だから。


遼は櫂を海へ差し込む。


舟が進む。


灯りへ向かって。


その瞬間。


海鬼が咆哮した。


巨大な黒い腕が舟へ振り下ろされる。


だが。


美咲が前へ出た。


白いワンピースが風に揺れる。


彼女は海鬼を真っ直ぐ見つめた。


「……もういい」


海鬼が止まる。


美咲の声は静かだった。


「私は、行く」


黒い海が揺れる。


無数の亡者の顔が歪む。


『イヤダ』


『サミシイ』


『オイテイクナ』


それは化け物ではなかった。


ただ、“取り残されたもの”だった。


美咲の瞳から涙が流れる。


「ごめんね」


彼女は海へ手を伸ばす。


「でも、私は帰りたい」


その瞬間。


遠くの灯りが強く輝いた。


温かな光。


まるで港だ。


誰かが待っている場所。


海鬼が苦しむように身体を捩る。


黒い波が崩れていく。


亡者たちの声が変わった。


怒号ではなく。


泣き声に。


『カエリタイ』


『カエリタカッタ』


『オカアサン』


『イエニ』


遼の胸が締めつけられる。


みんな、帰りたかっただけなのだ。


美咲が振り返る。


今度の彼女は、完全に人間の顔だった。


穏やかで、美しかった。


「ありがとう」


遼へ向けた言葉。


そして澪へ微笑む。


「この島を、嫌いにならないで」


澪は涙を流しながら頷いた。


美咲は最後に、空を見上げる。


「……綺麗」


その瞬間。


彼女の身体が、淡い光になった。


白い粒子が海風へ溶けていく。


同時に。


海鬼の身体にも亀裂が走った。


無数の顔が、次々に光へ変わる。


苦しそうだった表情が、少しずつ穏やかになっていく。


『……アリガトウ』


誰かが言った。


それは亡者たちの声だった。


黒い海が静まっていく。


波が穏やかになる。


瀬戸内の凪。


本来の海へ戻っていく。


遼は櫂を握ったまま、ただ見つめていた。


やがて。


海鬼は完全に崩れ、夜の海へ溶けた。


静寂。


残ったのは、波の音だけ。


そして。


舟の先に、朝焼けが見えた。


水平線が、ゆっくり赤く染まっていく。


夜が終わる。


長かった夜が。


澪が小さく笑った。


涙で濡れた顔のまま。


「……朝ですね」


遼は頷く。


遠くで、島の港が見えた。


いつもの志々島。


小さな漁船。


坂道。


みかん畑。


変わらない瀬戸内の風景。


だが。


もう同じ景色ではなかった。


遼は空を見上げる。


祖父の声が聞こえた気がした。


――進め。


舟は静かに、朝の海を渡っていった。

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