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『凪の海に、まだ陽は沈まない』  作者: 鷹司 怜


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第十四章 島に残るもの

それから、一週間が過ぎた。


志々島には、いつもの時間が戻っていた。


朝になれば漁船が出る。


昼には港で魚を捌く音が響く。


夕方になると、坂道を猫が歩く。


何も変わっていないようで。


けれど、確かに何かが変わっていた。


港へ出ると、島の老人たちが遼へ声を掛けるようになった。


「おう、三上んとこの孫」


「みかん持ってけ」


「魚いるか?」


距離感が近い。


東京なら少し煩わしく感じたかもしれない。


だが今は、不思議と嫌ではなかった。


人と人の間に、海風みたいな余白がある。


瀬戸内の人間は、必要以上に踏み込まない。


けれど放っておきもしない。


その絶妙な距離感を、遼は少しずつ理解し始めていた。


「似合ってますね」


声を掛けられ振り向く。


澪だった。


遼は漁港の手伝いをしていた。


長靴に、古びた作業着。


手には鯛。


「編集者だった人に見えません」


「自分でもそう思います」


澪が笑う。


その笑い声を聞くと、遼の胸の奥が少し温かくなる。


「今日、島の食堂でご飯食べません?」


「食堂?」


「おばちゃんたちが集まってるとこ」


昼過ぎ。


二人は港近くの小さな食堂へ入った。


暖簾には《しおさい》と書かれている。


中は煮魚と出汁の匂いで満ちていた。


「遼くん!」


白髪のおばちゃんが大声を上げる。


「聞いたよ、東京の人なんだって?」


「まぁ……」


「細いねぇ! 食べなさい!」


気づけば、目の前に料理が並んでいた。


鯛の煮付け。


たこの天ぷら。


ひじき。


じゃこ飯。


牡蠣の味噌汁。


瀬戸内の海そのものみたいな食卓だった。


遼は一口食べる。


優しい味だった。


派手ではない。


けれど身体へ静かに染み込んでくる。


「うまい……」


おばちゃんが満足そうに笑う。


「海のもんはね、人を元気にするんよ」


澪が小声で囁く。


「島のおばちゃん、食べさせるの好きだから」


「量がすごい」


「断っても増えます」


本当に増えた。


遼は久しぶりに、声を出して笑った。


その瞬間。


店内のテレビからニュースが流れた。


《都内出版社の経営悪化――》


遼の表情が止まる。


画面には、以前勤めていた出版社の名前が映っていた。


澪が気づく。


「……大丈夫ですか」


遼はしばらく黙った。


東京での生活。


積み上げた仕事。


失敗。


辞めた日。


全部、遠い気がする。


だが、消えたわけではない。


過去は海みたいなものだ。


どこまで行っても繋がっている。


遼はテレビから目を逸らす。


「俺、逃げてきたんだと思います」


澪は何も言わない。


「仕事も、人間関係も」


遼は味噌汁を見つめる。


「ここ来るまで、自分が何したいのかも分からなかった」


潮の匂いが窓から入る。


港では船のエンジン音。


誰かの笑い声。


島の日常。


遼はふと気づく。


あの夜以来、海が怖くなくなっていた。


「でも今は」


澪を見る。


「少しだけ、残りたいと思ってます」


澪は驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。


「じゃあ歓迎会しないと」


「歓迎会?」


「島って、理由つけて飲みたいだけなんで」


外で、船の汽笛が鳴る。


その時。


店のおばちゃんが言った。


「そういえば、今年の夏祭りやるってよ」


遼と澪が同時に顔を上げた。


「祭り……」


「ずっと中止だったけどねぇ」


おばちゃんは嬉しそうに続ける。


「今年は久しぶりに提灯出すんだって」


遼は海のほうを見る。


夏祭り。


三十年前、止まってしまった夜。


だが今、島はもう一度前へ進もうとしている。


窓の外では、瀬戸内の海が静かに光っていた。


その水面に、一瞬だけ。


白い光が揺れた気がした。

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