第85話 武士道
『皇太子』トーリン・ヴェル・オーディンソンは立派な人物だった。
先祖譲りの赤髪は兄弟姉妹の誰よりも鮮やかで、精悍な顔立ちは父祖神や皇祖帝を思い起こされると評判だった。
実務においても、文武両道。
皇族でありながら騎士学校に進学、首席で卒業したかと思えば、外征軍にも従軍して手柄を挙げた。
人格面でも悪い噂は一切なかった。
真面目で誠実。民を思いやり、帝国の未来を真剣に考える好青年だったとされている。
まあ、オレ自身は会ったことがないし、原作の『帝国物語』においてもトーリン皇子についての描写はそう多くなかったし、本当のところは分からない。
だが、ジークリンデが今も彼の死を悲しんでいることを鑑みればひとかどの人物であったことは間違いない。
実際、すでに皇太子として指名されていたトーリン皇子が夭折しなければ今の帝国の混乱は起きていなかっただろう。
そんなトーリン皇子の死の現場に、ジークリンデは居合わせていた。
皇子の最期を看取ったのも彼女だ。
王子が亡くなったのは今から五年前の事。
帝城でのパーティー中に突如として吐血した皇子は必至の看護と治療の甲斐なく、一月後に死去した。
その死の当日のことだ。
病床のトーリンはジークリンデを死の床に呼び、二人だけで話をした。
崩御したのはその直後のこと。それゆえある噂が立ってしまった。
トーリン皇子の命を奪ったのは第一皇女だと、誰かが、愚劣で蒙昧なものが、口の端に乗せた。
噂が広まるのは一瞬だ。
トーリン皇子の死因が病とも毒とも明言されなかったこともあって、よけいに人々は疑い、嫌悪し、面白がった。
無論、根拠のない中傷だ。
脳味噌の処理能力がファミコン以下のものしか信じない、デマ以下のデマだ。
だが、言われたものは傷つく。
ましてや、ジークリンデのようなお優しい方にとって実の兄を殺したなどとなじられることは死にも勝る苦痛だ。
ゆえに、オレは誓った。
ジークリンデの前で、いや、ジークリンデの前でなくともこの噂について仔細まで口にしたものは決して生かしてはおかぬと、そう決めたのだ。
その誓いを守る時が来た。
「――ひっひぃぃぃぃ!」
窓を突き破って路面に墜落した肉の塊はまだ呼吸をしている。
さすがは貴族の肉体だ。不埒ではあるが、殴りがいはある。一撃程度ではまだ何もしていないのと同じだ。
「ふ、副団長殿!?」
窓から飛び降りると、裏門を抑えていた赫奕騎士団の騎士二名がいる。
状況を理解していない様子の彼らを捨て置いて、オレは肉塊へと歩を進めた。
「あぎゃっ!?」
逃げようとする足、その右ひざの関節を踏みつけて止める。
骨の砕ける音が耳に心地いい。こいつがこれから発していい音はこれと悲鳴だけだ。
「や、やめろ! やめてくれ! 先ほどの言葉は取り消す、だから――ぐぇっ!?」
「――誰が話していいと言った」
ぶよぶよとした首元を右手で掴み、そのまま持ち上げる。
分厚い肉の奥にある骨の感触を指先に感じる。この程度の硬さなら片手でへし折れるだろう。
途端、二つの魅力的な選択肢が脳内で首をもたげる。
一つはこのままこの肉塊の首をへし折ってとどめを刺す。それでこいつはもう何の音も発せなくなる。
ジークリンデを侮るゴミが一つこの世から消えるわけだ。
もう一つの選択肢はこれを限界まで痛めつける。
全身の骨を砕き、肉を裂いて、一撃ごとにオレの怒りを知らしめる。そうして生じた無残な死体をさらしものにすれば、二度とジークリンデを愚弄しようなどと考えるものは現れないだろう。
そうだ、そうしよう。二番目がいい。
どうせならこんなゴミでも有効活用した方が世のため人のため、ひいては、ジークリンデのためだ。
方針が決まれば話は早い。
まずは万が一にも逃げられないように左脚も潰しておこう。思い切り引っ張れば関節から千切れるはず、あとは――、
「そこまでだ、キリアン」
凛とした声に、邪魔をされた。
背後にいる。振り返らずとも誰の言葉かはわかっていた。
「止めるな」
「止める」
オレの言葉をトモエが跳ねのける。
オレの怒りなど一顧だにしないがんとした意思だ。
その気になればオレのことなど簡単に制圧できるくせに声を掛けたのは、彼女がやはり『侍』だからだろう。
だが、やめる理由にはならない。
「これは口にしてはならぬことを口にした。万死に値する」
ここまで言えばトモエなら通じるだろう。
トモエの言い分は理解するが、ここはオレも譲る気はない。
さあ、やるべきことに戻ろう。見たくないものは下がっていればいい。
「わかってる。でもこれ以上は忠義に悖る」
「――なに?」
だというのに、聞き捨てならない言葉に思わず指先の力が緩む。
そのせいで肉塊を放してしまい、意識を失っていたやつは路面に再びたたきつけられた。
それほどまでに、オレにとっては許しがたく、また信じがたい言葉だった。
いや、あるいは心の奥底のどこかではそう自覚する声を聴いているからこそ、これほどまでに動揺したのかもしれない。
「誰が、なにに、悖るだと?」
それでも怒りが口を動かす。
トモエに対してこんな感情を抱くのはこれが初めてのことだった。
いや、違う。
誰に対してもこんな混乱した気持ちになったことはない。怒っているのに、それ以上に哀しくて心が張り裂けそうだった。
その切なさが急速に心の熱を冷ましていく。
殺意は健在だが、操縦席についているのは感情ではなく理性だった。
「トモエと、貴方が」
「…………オレはともかく、君はよくやっている」
拳を解き、呼吸を落ち着ける。
今度は六秒数えるまでもなく、落ち着けた。
「姫御はそれは望まない。正々堂々と討ち果たすのならともかく、すでに戦えぬものをなぶるのことは、望まない」
「……わかってる」
「主のためとはいえ、主の望まぬことをするのは不忠と紙一重だ。時に必要だとしても、それにそのような価値はない。たとえ何を口にしたとしても、だ」
思考どころか、心中までも見透かしたトモエの説諭に思わず微笑んでしまう。
確かに、その通りだ。
頭では、理性では、そのことを理解しているくせに、怒りのあまりに忘我していた。
言い訳はしない。
あとでこいつが手向かってきたことにすればいいとか、館の人間を皆殺しにすればことは露見しないだとか、そういう姑息な誤魔化しを口にしてトモエを失望させたくなかった。
ああ、つくづくオレという男は中途半端だ。
「そして、連れ合いが過ちを犯そうとしているのにこれを見逃してはトモエの不忠だ」
トモエが一歩近づいてくる。
オレは振り返らず、かといって、恥のあまり逃げ出すこともできずに、ただ待った。
白い指がオレの右手を取る。健康的な指先が絡みつき、掌に触れた。
「キリアンは、不忠な女など好いてはくれない。そうだろう?」
「……そうだな」
右手には鋭い痛み。どうやら強く拳を握りすぎたせいで、血が滲んでいたらしい。
…………冷静になった、とは口が裂けても言えない。
それでも今は優先順位くらいは区別がつく。
「……目的果たした。即座に撤収。一刻も早く、品を届ける」
「御意」
それ以上何も言わず、トモエは手拭いを裂いて、オレの右掌に巻いてくれる。
強く結ばれたそれはじくじくと痛むが、今はそれが心地よかった。
……こうなると、最低限のことはしておかないといけないか。
「面倒な」
そう呻いてから気絶しているバルゴの脚を掴んで、屋内へと引きずり、家人に引き渡す。
幸い、トモエのおかげで致命傷までは与えていない。まあ、しばらくは全身が痛むだろうし、そのたびに自分の罪を思い出すがいいさ。
これで、この館にやってきた目的は果たした。あとは無事に届けるだけだ。
「…………オレには、ああいうところがあるようだ」
馬に乗っての帰還の途上、オレはトモエにそう打ち明ける。
いや、今までもジークリンデ関連で怒り心頭に発することはあったが、あそこまで強烈なのは今日が初めてだった。
もしトモエが止めていなければオレは確実にあの男を殺していただろう。
そうなれば第一皇統派は取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。いずれは派閥内での意思統一をせねばならないだろうが、今はそれ以上に優先すべきことはいくらでもある。
例えば、トモエに礼を言うとか。
「知ってる。ゆえに、武士だと思った」
「なら、失格だろ。感情に流された」
「烈しいところのない武士などいない。むしろ、あの場で思いとどまっただけ、品があるとさえいえる」
「故郷ならあれは生きていない」と断言するトモエ。
これ以上聞いてもトモエは事実を言っただけとしか答えないだろうが、オレを慰めようとしてくれているのは明らかだった。
「――ありがとう。その、オレを支えてくれて……」
そんなことに思い当たったせいか、今までになく素直に礼を述べることができる。
トモエがいなければ、オレは不忠者になっていた。
であれば、これは返しきれない大恩だ。其れこそ一生かかっても。
「妻としては、当然のことだ」
だから、今日は否定はしない。
トモエのしてくれたことはまさしく伴侶たるものの最大の務めだったのだから。
…………覚悟の決め時かもしれないな、オレ。




