第69話 お見合いパニック
ジークリンデがティーカップを落とすなど天地がひっくり返ってもありえないことだ、とオレは思っている。
彼女の礼儀作法は完璧だ。だから淑女としてたとえドレスの裾に火を付けられたとしてもティーカップを落として割るなんてことはありえない。
だが、そのありえないことが起きてしまった。
オレのお見合いの何がそこまでの衝撃だったのかはさっぱり分からないが、そんなことを考えるより先にすべきことがオレにはある。
「ジークリンデ様!」
一瞬で立ち上がり、ジークリンデに駆け寄る。
右手にはハンカチ。幸いお茶がぬるくなっていたおかげで火傷などはしていないだろうが、それでも心配だ。
「大事ありませんか!? 濡れてはおられませんか!?」
すぐさまテーブルにこぼれた茶をふき取り、ジークリンデが濡れていないか確かめようとする。
すでに割れたカップは片づけずみだ。ジークリンデの手から落ちるような不遜なティーカップなど今すぐ粉砕してしまいたいが、それは後だ。
今はジークリンデだ。なぜか呆然としておられて、心配だ。
こんなにショックを受けておられる姿は初めて見た。まさか持病の頭痛か……!?
「リーヴァ! 医者だ! すぐに侍医を起こせ!」
「ぎょ、御意!」
即座にリーヴァを走らせようとするが――、
「…………待って。大丈夫、です」
ジークリンデ本人に止められる。
よかった、ショック状態からは抜け出したようだ。だが、一体何をどうしたというのだろう……?
「すこし、めまいがしただけです……」
本人はそういうが顔からは血の気が失せている。
オレには分かる。今のジークリンデはかなり危うい。本編で言えば自分の離宮が物理的に炎上した時と同じくらいの精神状態と見た。
…………もしや、ユリアの発言のせいか? オレがお見合いをするということに精神的に打ちのめされておられる……?
……不可解だが、ほかに理由は考えられない。
おそらくオレが婚姻を結ぶことで職務を疎かにするのでないか、と不安を抱かれたのだ。
不甲斐ないことだ。
オレの忠誠は何があっても揺るがないし、それを証明してきたつもりだったが、まだ伝えきれていなかったとは。
だが、原因が分かれば対処はできる。改めてジークリンデの側に跪き、彼女と視線を合わせた。
金色の瞳がオレを見返す。そこにあったのは吸い込まれそうになるほどに深い不安と恐怖。臣下として面目なさに苛まれつつ、言葉を選ぶ。
「ジークリンデ様。妹の迂闊をお許しください。ですが、ご安心を。自分はお見合いなど受ける気はありません」
「…………そうなのですか?」
オレの宣言に、ジークリンデはますます瞳を潤ませてしまう。
疑っているわけではなく、ただただ不安なのだといやがおうにも伝わってくる。
「はい。自分の第一はジークリンデ様にお仕えすること。この一事のみです。婚姻がその妨げになるのなら、一生独り身であったとて悔いなどあろうはずがありません」
「…………キリアン」
なおも揺れるジークリンデの瞳に、確かな信念を持って答える。
オレも人の子だ。自身の幸福への探求心や人間的な欲求が皆無なわけじゃない。
だが、忠義はそれらすべてに優先する。ジークリンデがオレの婚儀に何らかの疑念を抱かれるのであれば、オレはその疑念を払しょくするために己を捧げるのみだ。
「……わかりました」
その甲斐あってかジークリンデの眼に力が戻る。
オレの覚悟が伝わったのだ。動悸も治まったようで、呼吸も落ち着いていた。
「お兄様…………」
「キリアン様………」
代わりにユリアとリーヴァにはあからさまに呆れた感じでため息を吐かれるが、こればかりはオレも譲れない。
シグヴァルト家の長子として大いに問題があることは承知の上だが、そこら辺のことも含めてユリアには託せるとオレは思っている。
当主としての実務能力もいまやユリアの方が上だ。領地の経営だってよほどうまくやっている。
だから、兄としては非常に情けない話だが、わがままを許してもらうほかない。
「…………結婚なさろうがなさるまいが、それはお兄さまの自由ですが、このお見合いには出席していただけねばなりません。断れるのであれば、そもそもわたくしの元に報せが来た時点で断っています」
「それはそうだが……」
一方で、ユリアの言葉には一理あるどころか道理しかない。
実家の方に届くオレあての縁談についてはユリアに一任して、すべて断るか、保留にしてもらっていた。
にもかかわらず、ユリアがこうして帝都を訪れているということは断り切れない案件が舞い込んだということだ。
となると相手は限られてくる。実質的には二択といってもいいだろう。
「……皇族方か。それとも、親戚か」
「後者です。それも、外征軍のヘズメル将軍の縁者だそうで」
「ヘズメル……『隻眼将軍』の、ヘズメル閣下か……!」
ユリアが口にしたヘズメル将軍の名に、オレはおろかジークリンデやリーヴァまで声をうしなった。
それほどまでにドノヴァン・ヘズメル侯爵の偉名は轟いている。
『不動のヘズメル』、あるいは『アスムンドの征服者』。だが、一番有名な異名はやはり、『隻眼将軍』だろう。
いくつもの異名を付けられるだけあってヘズメル公の戦歴は戦続きの帝国においても比肩する者のない長さと濃さを誇っている。
なにせ出征してから50年もの間、最前線で戦い続けているんだ。勝ち戦も負け戦も経験しつくした彼こそを大陸最強の名将と称するものも少なくない。
実際、原作『帝国物語』における彼の統率は96で作中2位。その指揮能力も影響力も大陸で指折りだ。
そんなヘズメル閣下だが、シグヴァルト家とは遠縁であり、彼からの要請となれば確かに簡単には断れない。
「直筆のお手紙もいただきました。リーヴァがいれば先に使いを出したのですが、いないので直接来たのです」
「……なるほど」
リーヴァを傍で使っていることをチクリと刺しながら、ユリアは懐から手紙を取り出す。
受け取って目を通すが、確かにヘズメル閣下のもので間違いない。
文章も武人らしい端的さで書かれているし、押されている印章も間違いなくヘズメル家のものだ。
……偽造ではない。となると、本当にヘズメル閣下がオレを見込んだということになる。
…………直接の面識は、ない。
ヘズメル将軍がおられるのは帝国北部の戦線だ。そちらにいったことはないし、親戚の集まりでも会ったことはない。
そんなヘズメル閣下が、オレとの縁組を要請するというのは考えづらいことではあるが……困ったな。
「…………ヘズメル侯」
だが、オレよりもジークリンデの方が途方に暮れている。落ち着きかけていた呼吸が荒くなり、遠くを見つめていた。
いかん。ジークリンデがよくない想像をしている。ど、どうしよう……、
窓の外の夜闇のような静寂が応接室に訪れる。誰もが10秒間ほど呼吸音すらさせなかった。な、なんとかせなば……、
「恐れながら、申し上げます」
オレまでパニックに陥りかけていると、冷静な声が響いた。
リーヴァだ。いつの間にか仕事モードになっているのは顔を見ればわかった。
助かった。彼女の顔を見たおかげで、オレも冷静になれた。
突然のことで面食らったが、よくよく考えてみれば対処法は無数にある。
例えば――、
「お会いになられたからといって、かならず婚約せねばならないというわけでもないと存じます。とりあえずお会いになり、後でうやむやにするなり、破談になさるなり、処方はいくらでもございますかと」
思いついたことを大半、リーヴァに言われてしまう。
相手が相手であり、面子をつぶすわけにはいかない以上、お見合いそのものを断ることはできない。
だが、そのあとのことはかの大将軍の手を離れる。相手方の女性がオレを気に食わなければそれでいいし、嫌われるように振舞うのは難しいことじゃない。
…………本当のところを言えば、オレがあのヘズメル侯と縁づくのはかなりよい選択ではある。
なにしろ、第一皇統派と外征軍最大の重鎮との間に切っても切れぬ縁ができるわけだからな。
………………戦略面での利益を考えれば断る理由はない。それどころか、縁組に対して前のめりになってもいいくらいだ。
「…………キリアン」
「わかっています、ジークリンデ様。お信じください」
だが、オレにとっての第一はジークリンデだ。
今は彼女がオレの婚姻を望まぬというならそれに従うまでのことだ。
なに、常に最善の策を打てるわけでもない。よい策士とはつねに次善の策を用意しておくものだ。
ジークリンデの周りにオレ以外にも信用できる人材が増えればこういう不安も減るだろうしな! オレの婚姻はそれからでもいいだろう。
◇
ジークリンデの日記より引用
あの日のことはできれば思い出したくない。
あまりの衝撃に無様をさらしてしまったし、キリアンにもいらぬ心配をかけてしまった。
でも、仕方ないとも思う。ユリアも帝都に来ると知らせてくれたのなら、ついでに用件についても教えてくれればよかったのに。
いや、さきに知らされていたらそれはそれであらゆるものが手につかなくなっていただろう。
だって、現にそうなっている。書類に署名している時も、お茶を飲んでいる時も、こうして日記を書いている時でさえずっとキリアンのお見合いのことを考えてしまう。
いつからわたしはこんなにも弱くなってしまったのだろう。
少し前まではもっと物事に動じず、冷静に判断できていたはず。従者がお見合いをするからと言ってあんな風に取り乱したりはしなかった、と思う。
でも、それはきっと、わたしが感情を動かす機会がなかっただけのことで、本当のわたしはどうしようもなく不安定で、脆い、古いガラスのような存在だったのだろう。
そんなわたしを暴き立てたのは、キリアンだ。
彼のこととなるとわたしの心は千々に乱れ、彼に会えない間は一日を千日にも感じてしまう。そうなってしまった。
恋とはきっとこういうものなのだろう。
燃えるように熱くて、どうしようもないほどに強い。この世に存在するどんな力も、これには勝てない。神々の意志でさえも、きっと。
であるからして、キリアンには責任をとってもらうしかない。
わたしの心をここまで変えてしまったのだから、ずっとずっと、永遠に傍にいてくれないと嘘だ。
そのためには、やっぱり、彼をわたしの皇配にしないと。
彼を狙う女狐は多い。わたしも迅速に動かないと……、
まずは外堀を埋める。
幸いユリアはわたしに好感を持ってくれているし、あの使用人も今回に関しては協力的だ。
障害があるとすれば、キリアンの認識と今の身分。彼は貴族だから婚姻そのものはできるけど、やはり、家格を引き上げてしまった方が話は通りやすい。
策はある。キリアンは十分に功績を立てているからあとはお膳立てを済ませればいい。そうだ、ユリアにも手伝ってもらおう。あれだけわたしを驚かせたんだから、それくらいはしてもらわないと。
(『忠節公』の妹君『賢妹』ユリアと『熱愛女帝』との間での往復書簡は複数存在しており、その文面と内容からはお二方がごく親しい間柄であったと推察されます。また、『熱愛女帝』の婚姻においても『賢妹』による補助が多くあったという記録が残されています。帝国万歳)




