赤い印と読めない地図
白地図帳が、手の中でちりんと鳴った。
黒鉄の第五層、昼下がり。初心者向けの案内図を握った三人組の少年が、金色に光る道を、おっかなびっくり進んでいる。先頭は十四、五歳で、背中の荷袋が大きすぎて、歩くたびに左右に揺れていた。
シンとフィオナは、その少し後ろを歩いていた。「噂の地図屋の図」を実際に使う客を、一度ちゃんと見ておきたかったのだ。
「あの子たち、図を逆さに持ってない?」
「今は合ってる。さっきまでは逆さだった」
「どうして教えてあげないの」
「自分で気づいたほうが、覚える。父さんの受け売りだけど」
先頭の少年は、分かれ道のたびに図と壁を見比べて、うん、と力強く頷いてから進んでいる。それが妙に誇らしげで、シンは少しくすぐったかった。
そのとき、手の中の帳が、もう一度ちりんと鳴った。開いた頁の端に、見慣れない色が滲んでいる。
赤。
【第五層 第三通路 未完】
「ここ、昨日は金色だったぞ」
「差分警告よ。測ったあとで、地形のほうが変わったの。昨夜は地下水が増えてたし、壁が湿ってるって、貴方も言ってたでしょう」
言い終わらないうちに、通路の奥で、ぱらぱらと砂の落ちる音がした。三人組の頭上、通路の先端だ。
「止まれ! そこの三人、全員うしろへ!」
「えっ、な、なに!?」
振り向いた先頭の少年の頭上で、天井の石がずるりと剥がれた。人の胴より大きな岩塊が傾いて、落ちる。亀裂が蜘蛛の巣のように走り、拳大の石が雨のように降りはじめた。
シンは走りながら、右手を前に出していた。昨日、フィオナの家でお茶のカップを軽くしたときの感触が、指に残っている。
(重く、じゃない。軽く)
落ちてくる岩の「重さ」を掴んだ。掴んだまま、ゼロに近いところまで抜いていく。
ふわり、と。轟音を立てるはずだった岩塊が、枯れ葉みたいに宙で止まった。降っていた小石も、掌の先でぴたりと速度を失って、ひらひらと漂いはじめる。
「走れ! 壁際まで、振り返らずに!」
少年たちは悲鳴を上げることも忘れ、荷袋を抱えて駆け出した。フィオナが最後の一人の襟をつかんで、引きずるように走らせる。
三人が通路の外に出るまで、シンは掌を下ろさなかった。指先が痺れて、じんじんと熱い。長くは持たない。
「出ました!」
フィオナの声を聞いてから、浮いた岩塊を、風に乗せるように横へ流した。壁際にふわりと着地する。
ことん、と、拍子抜けするほど軽い音がした。
「怪我は?」
「な、ない、です」
「ならよかった」
シンは手首を振った。遅れて駆けつけた別の探索者たちが、壁に立てかけられた岩を見て、シンを見て、また岩を見る。
「あれ、人の背丈の二倍あるぞ。どうやって持ち上げた」
「持ち上げてない。軽くしただけです」
誰も、意味が分からなかった。
「危なかった、じゃないわよ!」
息を切らしたフィオナが、シンの腕を叩いた。本気で怒っている顔だった。
「間に合ったからいいようなものの。金色の道だからって、安全じゃないの。そこが今回の問題よ」
「問題?」
「金色は、貴方が過去に歩いたという記録でしょう。今の安全を保証するものじゃない」
シンは黙った。そのとおりだった。父の古い地図と同じで、更新しなければ、記録はただの昔話になる。
父の机の引き出しには、三十年前の地図がしまってあった。大きな字で「立入禁止」と書き込まれた赤い印。昔は意味が分からなかったが、今なら分かる。あの図は「ここは、あの日までは安全だった」という意味だった。
「日付を入れよう。測った日と、確かめた日。それから、次に見直す目安も。古い地図は、古いって一目で分かるようにしておく」
「いいじゃない。『最終確認日つき』って、売り文句になるわ」
「売り文句にするな」
「するわよ。買う人は、安全にお金を払うんだから」
そのとき、助けられた少年が、おそるおそる手を挙げた。
「あの……その地図、今日付けのやつ、いくらですか」
「銅貨八枚」
「買います!」
「俺も」「私も!」
いつの間にか、集まっていた探索者たちが、財布を握りしめて並んでいた。
***
「全然、読めませんでしたっ!」
三日後、ギルド前の広場で、あの三人組が地図を握りしめて叫んだ。
「ここが入口で、どっちが北で、あれ、なんで線がこんなにいっぱい」
「それ、逆さま」
くるりと向きを直された図を見て、シンはこめかみを押さえた。
精密に描いたのだ。距離も、高さも、壁の厚みも、誤差は指一本分以内のはずだった。なのに、初心者には読めない。実際に三人は、第一層で同じ場所をぐるぐる回って、日が暮れて、泣きながら戻ってきたという。
通りがかったギルドの古株が、横から図を覗いて鼻で笑った。
「なんだこりゃ。測量技師の仕様書じゃねえか。そんな図で迷宮に入る奴ぁ、泣きを見るぜ」
「うるさい」
言い返せなかったのが、悔しかった。フィオナが、容赦なく図の端を指で弾く。
「地図は、読む人のためにあるの。貴方、自分が読めるように描いてるでしょう」
「……かも」
「入口から最初の三歩だけでいいわ。子供でも分かる言葉を書き足して。『ここが入口』『最初の分かれ道は左』『水の音がしたら引き返す』」
「それだけで?」
「最初の三歩で自信をなくした人は、必ずどこかで無理をするの」
シンはペンを取り、入口の絵を描いた。大きな矢印、曲がり角に赤い丸。難しい線は薄く、目に入る線は太く。思ったより難しかった。文字が大きすぎると図が潰れ、小さすぎると読めない。
「ここ、字が小さい」
机の向こうで、フィオナが勝手にシンの下書きに赤鉛筆を入れている。
「見えるだろ」
「貴方は目がいいから見えるでしょうね。もっと大きく」
「大きくすると、潰れる」
「潰れないように配置するのが、仕事でしょう」
蝋燭が半分に減るころには、二人の言い合いは低く、親しげになっていた。ふと顔を上げると、フィオナの頬にインクがひと筋ついていた。
「ほっぺ、黒い」
慌てて拭こうとした彼女の手にもインクがついていて、黒い筋は倍になった。シンは耐えられずに吹き出し、手の甲で笑い涙を拭いたら、自分の鼻にも一本ついた。
二日後、三人組は無事に第一層を往復して、揃って礼を言いに来た。
「めちゃくちゃ見やすかったです! 入口の矢印のおかげで、迷わなかった!」
「売り切れで買えなかった人が、文句言ってます!」
行列の端で、あの古株の探索者が、気まずそうに自分の財布を開けていた。目が合うと、彼はふいと顔を背けた。
入口の三歩のために、三日かかった。それでも売れた。シンの口元は、どうしようもなく緩んでいた。
行列が一段落したころ、先頭だった少年が、思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。第一層の奥に、風の穴があるって知ってますか。案内所の人が、入った風が戻ってこない穴だって言ってて」
「戻ってこない?」
「布を結んで入口に掲げたら、奥へ吸い込まれて、それっきりだって。誰も、奥まで行ったことがないらしいです」
シンとフィオナは、顔を見合わせた。
第一層は、シンがとっくに歩いた場所のはずだった。その一番浅い場所に、図に載っていない穴がある。




