同じ図への署名
父さんへ。
生きています。足は少し折れていますが、元気です。この手紙は今夜のうちに郵便屋へ預けます。朝の荷馬車に乗れば、四日で着くそうです。
先に謝っておきます。クランを抜けました。理由は書くと長くなるので省きますが、俺が悪かったわけではないと思います。多分。
新しい仕事を始めました。地図を、売っています。二年間、荷を押しながら描いていた図が、思ったより役に立ちました。同封の分は、父さんの手の具合を医者に診てもらうために使ってください。
友達ができました。荷運びの青年と、碑文士の女の子です。碑文士の子は、ちょっと怖いです。でも、すごく頭がいいです。誤植を見つけるのが、俺より上手いです。
父さんに教わった護身術のおかげで助かりました。腰から出せ、は今でも覚えてます。
追伸。同封の小石は、第五層のものです。重いです。
シン
***
封をして郵便屋に預けたあと、帰り道で、実家の机にあった古い図を思い出した。
父の洪水図。故郷の川沿いの村を描いた大判の測量図で、隅の「更新日」の欄だけが空欄のままだった。
五年前に川が氾濫したとき、父の図を信じて低い道を選んだ人たちが、大勢巻き込まれた。更新警告が出なかったのは、更新していなかったからだ。
父は、あの日から右手が震えるようになった。
(あの空欄を、俺が埋めてやる)
そう思って、地図描きになった。まだ誰にも言ったことはない。
宿に戻って、最新の黒鉄の図に日付を大きく書いた。少し迷って、その横にもう一つ書く。
「更新日」
インクが乾くまで、シンはじっとその文字を見ていた。
***
翌朝、シンは委託販売の帳簿を懐に入れて、モルト堂へ向かった。
三日で三百部。そのうち、書肆のモルト堂の取り分が一番多く、百二十部ある。解除届と帳簿を持って出る理由は、昨夜の広告にあった。訳者の名前がない。
店の戸口で、足が止まった。
「二枚で銀貨一枚。それ以上は出せんな」
書肆の主人モルトが、でっぷりした指で、古文書の束を押し返していた。カウンターの前に立っているのは、亜麻色の髪を鉛筆で留めた背中だった。
「四十頁あります。三週間かけて写して、訳して、注をつけました」
「碑文士の翻訳なんぞ、需要がないのだよ」
「需要がないなら、なぜ先月、同じ訳文が『モルト堂蔵・古代保守録の初訳』として金貨で売られていたんですか」
モルトの笑顔が、ぴきりと固まった。
「何のことかな」
「私の訳です。注の癖も、誤訳の箇所まで、そっくり同じでした」
フィオナの声は震えていなかった。ただ、カウンターの縁を握った指が白かった。懐から出した帳面には、彼女の筆跡の下書きが日付つきで並び、その隣にモルト堂が売った写本の写しが挟まれている。
モルトはそれを一瞥して、鼻で笑った。
「碑文士殿は貧しい家の出だろう。仕事が欲しいなら、この条件で回してやる。嫌なら他を当たるといい。私が嫌がる翻訳者に、仕事を出す店は多くないがね」
フィオナの目が、悔しさで潤んだ。そのとき、戸口の鈴が鳴った。
「失礼します」
松葉杖をついて入ってきた少年に、モルトの態度が急に軟化した。
「おや、話題の地図描き殿。黒鉄の地図は、うちでも委託販売を――」
「その話で来ました」
シンはカウンターに、一枚の紙を置いた。
「委託契約の解除届です。それと、これから出す地図の序文は、碑文士フィオナ・シルフィード名義で付けます。販売所は、彼女を正当に扱う店だけにします」
フィオナが目を見開いた。
「シン、あなた、何を」
「もう決めた。モルトさん、うちの地図は三日で三百部売れました。扱い量が一番多かったのは、ここです。今月中には千部出ます」
帳簿の数字を指で叩くと、モルトの額に汗が浮かんだ。
「あ、いや、待ちたまえ。誤解だ。名義は、もちろん、きちんと表記しよう。翻訳料も、十枚で銀貨五枚に」
「四十頁で金貨三枚」
フィオナが低い声で言った。
「私の訳に需要がないのなら、先月の同じ訳文は、なぜ金貨十枚で売れたのか。説明していただけますか」
モルトの喉が、ごくりと鳴った。口を開き、閉じ、やがて肩が落ちた。
「……金貨三枚で、いい」
「先月分の差額も」
「いや、それは」
「ギルドの検証官に帳面を見せましょうか。ハロルドさんなら、昼過ぎには暇なはずです」
「……払います」
店を出て、通りの角を曲がるまで、フィオナは一言も喋らなかった。
「……貴方、お人好しね。私のために取引先まで切るなんて、大きな損よ」
「損じゃない。俺は君の仕事を買ったんだ。安い値段の人と組むのは、嫌だし」
彼女は何か言いかけて、唇をきゅっと結んだ。それから、小さな声で言った。
「……ばか」
懐の中では、金貨三枚が、ずっしりと重かった。
***
フィオナの家は製本屋だった。古い紙と膠の匂い、天井まで届く書棚。奥の作業台のそばに、色とりどりのインク瓶と付箋を積んだ、彼女専用の小さな机がある。
作業台の向こうで、父親が背を丸めて糸を綴じていた。
「友達かい」
「仕事仲間! ほっといて!」
「そうか」
父親は、また糸に戻った。肩が少し笑っていた。
シンが白地図帳を開くと、フィオナが横から身を乗り出して、右下の隅の欄を指した。
「この二つの記号。巻物の形が『記録』、歯車の形が『運転』と読むの。剣に使えるのが記録で、階層の設備を動かす権限が運転。別々なのよ」
「つまり、俺は剣士で、管理人でもある」
「そう言ってるじゃない。……正確には、今まで誰も読めなかった記号を、私が初めて読んだということだけど」
「ありがとう。君がいなかったら、ずっと『工具の印』のままだった」
フィオナは無言で立ち上がり、お茶の支度に戻った。背中が妙にぎこちなかった。
湯気の立つカップが、二つ机に置かれる。
「飲む前に、《重圧》を見せて。このカップで」
シンがカップに指を添えて念じると、ごと、と机にめり込んで、お茶が縁まで盛り上がった。
「こぼれる! こぼれる!」
「すまん!」
慌てて軽くすると、お茶が空中に細い糸を引いて、ぽちゃんと戻った。二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「重くするだけじゃなくて、軽くもできるのね」
「そうみたいだ。ただ、軽くするほうが指が疲れる。昨日、第五層の第三通路の壁が湿ってたのも、少し気になってる」
「明日、見に行きましょう」
お茶を飲み終えたころ、フィオナが羊皮紙を二枚、机に叩きつけた。
「契約書、作ったわ。図の共同名義、成果の配分、危険な調査の判断。全部、書面で残します」
「いきなりだな」
「いきなりじゃない。ずっと考えてた」
シンは受け取って、読みはじめた。
一、地図の著者名は、シンとフィオナの共同とする。
二、成果は等分とする。
三、調査に際し、いずれかが危険と判断した場合、共同の調査は停止する。再開には、双方の確認を要する。
三つ目の条項で、目が止まった。
「私が『止めて』と言ったら、貴方は止まる。逆もそう。どちらかが怖いと思った時点で、理由を説明する前に止める。説明は、止まってから」
「……」
「貴方は、どんどん先へ行く人でしょう。今は一人で歩いて、全部確かめて、自分だけで責任を取るつもりでいる。でもそれじゃ駄目。私は補助者じゃなくて、共同制作者として、ここに名前を置く」
一息に言い切って、フィオナは唇を引き結んだ。強い瞳の奥で、ほんの少しだけ、怯えが揺れている。
(この人は、俺に、止まってほしいんだ)
そんな頼みごとをされたのは、初めてだった。
白地図帳には、持ち主だけが使える「個人の非常操作」が残っている。契約書を交わしても、その権限が物理的に封じられるわけではない。それを知っているのは、シンだけだった。
彼はペンを取った。
「約束する。君が止めてと言ったら、俺は止まる。帳の個人操作は使わない。そんな抜け道は、絶対に使わない」
「……本当に? 破ったら、許さないから」
「破らない」
彼女はゆっくりと自分の名前を書いた。最後のはねが、少しだけ震えていた。
二つの署名が並んだとき、窓の外で夕刻の鐘が鳴った。
「よし。じゃあ今日から、私が貴方の相棒」
「雇い主じゃなくて?」
「雇い主なんて、貴方の柄じゃないでしょ」
シンは頭を掻いて、笑った。傾いた夕陽が、二つの署名を金色に染めている。
明日は、第五層の第三通路の壁を見に行く。湿りがただの地下水ならいい、とシンは思った。




