土地ではない領土
「小僧! てめえが黒鉄を乗っ取った地図描きか!」
ギルド前の広場に、怒号が響いた。煤けた作業着に鉱夫の手袋、肩にはツルハシ。十数人の男たちの先頭で、髭面の巨漢が仁王立ちしている。
「ガルド・ベック。三十年、第三層から第四層の黒鉄鉱を掘ってきた。噂じゃ、おまえが第五層を『領土』にしたそうじゃねえか」
男はシンの胸倉につかみかからんばかりに迫った。
「うちの坑口は第五層に繋がってる。今夜の組合の寄り合いで、坑口を閉じるかどうかが決まる。閉じられたら、鉱夫百人が稼ぎを失うんだ!」
「親方、落ち着いて。シンさんは、そんな人じゃ」
「荷運びは引っ込んでろ!」
広場の空気が張りつめた。通りがかりの商人が足を止め、パン売りが籠を抱えて物陰に逃げる。
シンは松葉杖を壁に立てかけて、真正面から見返した。
「閉鎖はしません。俺は第五層を所有したんじゃなくて、設備の世話をする仕事を引き受けただけです。鉱山の土地は、鉱山を掘る人のものです」
「口先ならいくらでも言える」
「なら、地図を見る前に、親方の勘を聞かせてください」
ガルドが眉を寄せた。
「勘だと?」
「三十年掘っていれば、ここは危ない、と分かる場所があるはずです。地図は伏せておきます。棒で、地面に描いてもらえますか」
ガルドは鼻を鳴らし、鉱夫から借りたツルハシの柄を握った。石畳の上に、がりがりと傷をつけていく。
「叩いて音が濁る床は、わしらは掘らん。第四層の西の落盤跡。坑口の真下の、古い排水路。それと、もうひとつ」
最後の傷だけは、ずいぶん長くかかった。
シンは懐から図を出し、傷の上にそっと広げた。金色の線と、赤い印。三つの赤が、三つの傷にぴたりと重なった。
鉱夫たちが息を呑んだ。ガルドは、ごつい指で赤をなぞった。
「……赤は、床が薄い区画です。十年前に崩れたところ。ここだけは封鎖します。それ以外は、金色の線の内側なら、これまで通り掘れます」
「この赤の下で、一昨年、三人死んだ。……わしの弟子だった」
低い声だった。
「はい。調べました。亡くなった場所は、ここです。封鎖の中でも、花を供えられる通路だけは作ります。許可をいただければ」
ガルドが顔を上げた。目が赤かった。何度か口を開いては閉じ、咳払いをして、鼻を鳴らした。
「……坊主。この下の鉱脈は、どこまで描いてある」
「第四層の南側に、太い脈が走っています。今まで危なくて掘れなかった場所です。線の内側なら、安全に届きます」
鉱夫たちがどよめいた。ガルドは図に顔を近づけて、指で線を三回追い、止まった。それから帽子を脱いで、勢いよく頭を下げた。
「すまなかった!」
広場が静まり返った。
「勘違いだった。てめえは鉱山を取り上げに来た悪党じゃなかった。仕事を増やしに来た人間だ。今夜の寄り合いには、わしがこの図を持っていく。坑口は閉じさせん」
「親方、顔を上げてください」
「いや、下げさせろ。三十年掘って、わしの穴の地図をこんなふうに作ってくれた奴は初めてだ。礼に、今夜は肉をおごる」
「俺、まだ十五で」
「なら、なおさら食え!」
豪快な笑い声が弾けて、鉱夫たちが歓声を上げた。
その様子を、少し離れた階段から眺めていた男がいた。上等な外套に金の指輪、ぶくぶくに太った体。ギルド顧問を名乗る商会長のヴァルドックが、手揉みをしながら近づいてくる。
「いやあ、結構結構。ところで地図描き殿、提案がある。第五層の入場料を取ってはどうかね。一人銀貨三枚、管理は私が引き受けて、取り分は三割で」
「お断りします」
シンは間髪を入れずに言った。
「俺は設備を管理しているだけで、土地を売る気はありません。入場料を取れば、行き止まりを調べたい人が入れなくなります」
「困る? 年に金貨百枚は固いんだぞ!」
「俺が稼ぎたいのは、地図と保守の仕事です。この街の人が迷わず歩ける仕事なら、毎日できます」
商人が口をぱくつかせていると、横から毛むくじゃらの腕が伸びてきた。ガルドが襟首をつかんで、ぶら下げる。
「旦那。こいつに金の話を持ちかけた奴は、みんな、たらふく食わされるんだ。わしの奢りでな」
そのままずるずると、居酒屋のほうへ引きずっていった。
「……この街、変な人しかいないの?」
フィオナが呆れて言った。
「たぶん、俺も入ってる」
シンが苦笑した。
***
実用地図が、売れた。
初日に三十部、二日目に百部。三日目には紙が足りなくなって、ギルド前に長い列ができた。黒鉄の第一層から第五層までの全測量図は、一部が銀貨三枚。初心者向けの縮小版は銀貨一枚。
「はい、次の方! 順番ですよー!」
マテオが頬を真っ赤にして叫んでいる。売り子の仕事を勝手に買って出て、気づけば五日連続だった。声が大きいので、商売には向いていた。
店じまいのあと、シンは木箱の上の硬貨を数えて、四つの山に分けた。刀の修理代、まともな縄と水準器、故郷の父へ送る分。四つめの山を、マテオの前へ押しやる。
「は? いやいや、こんなに貰えないっす!」
「売り子の分だ。足りないくらいだと思う」
「でも」
「受け取れ。相棒」
マテオは口を開けたまま固まって、それから急に目を潤ませた。
「……はい」
財布を逆さにして振ってみても、残った銅貨は数枚だった。それでも嫌な気はしなかった。
通りを歩くと、屋台の甘い匂いが鼻をくすぐった。蜂蜜を塗った小さな丸いパンが、一つ銅貨三枚。自分の稼ぎで買う、初めての贅沢だった。
ギルドの掲示板の前で、フィオナが貼り紙を睨んでいた。ぐう、と彼女の腹が鳴る。
「昼から何も食べてないの」
「半分、食べる?」
「いらない。……いる」
パンを二つに割って、大きいほうを迷わず渡した。目を見開いて蜂蜜の香りを褒めたあと、フィオナは思い出したように言った。
「貴方の貼り紙、誤植があったわよ。『黒鉄の巨坑』の『巨』が『拒』になってた。拒坑」
「えっ」
「直しておいたけど」
「ありがとう!?」
むっとしかけたシンの顔が、すぐにほころんだ。彼女も、笑った。
笑いが収まったとき、フィオナの視線が、掲示板の隅の広告で止まった。
『モルト堂 古代保守録・初訳 好評につき再版』
彼女は何も言わなかった。インクで黒い指が、鉛筆を握りしめている。
「どうした」
「何でもない。明日の午前は、用事があるの」
何でもないという顔ではなかった。広告の隅には、訳者の名前が書かれていなかった。




