風が戻らない穴
黒鉄の巨坑、第一層。
いちばん浅い場所なのに、そこは「静寂の風穴」と呼ばれて、誰も奥まで行かなかった。風が通り抜けるのに、出口の側では、その風を感じた人間が一人もいない。
地図の次の版は、三日後に刷る。初心者が最初に迷い込むこの穴だけが白いままでは、刷る意味がない。
洞窟の入口に立つと、肌に冷たい空気がまとわりついた。奥へ向かう風は、手を差し出すと、指の間をするりと抜けていく。
「おかしいよな」
シンは細い布切れを指に結んで、掲げた。布は、奥へ吸い込まれるようにたなびいた。
「ここから入った風は、どこかへ抜けてる。風は消えないから、行き先があるはずなんだ」
洞窟の奥から、かりかりと爪の音がした。灰色の影が三つ、岩陰から飛び出す。石鼠だ。猫ほどの大きさで、歯が岩を削る。初心者が最初に怪我をする魔物だった。
「下がって」
シンは刀を抜き、一歩だけ前に出た。先頭の石鼠が跳ぶ。
《重圧》。
見えない掌が、鼠の背に乗った。ずん、と地面に張りつく。続く二匹も、足を踏み出した姿勢のまま、岩に押しつけられた。ちゅう、ちゅう、と悲鳴が上がったが、身動きはできない。
刀の腹で、こつ、こつ、こつ、と頭を叩くと、鼠たちは白目を剥いて静かになった。殺す必要はなかった。
「……手際がよすぎて、感動する暇がないわ」
「褒めてる?」
「呆れてる」
フィオナは気を取り直して、壁の古代文字を見上げた。細い線で、渦巻きの形が刻まれている。
「整流設備の印よ。川の水門と同じで、風を貯めたり、向きを変えたり、逃がしたりする仕掛け。だから、この風は誰かが意図的に導いてる。渦の脇に、もう一文字あるわ。『静』と読めると思う」
「静かにする、ってことか」
「風の設備なのに、不思議でしょう」
シンは布切れを高く、低く、持ち替えながら歩いた。壁の厚みを叩いて測り、音を聞き、天井の亀裂の向きを見る。三刻かけて、ひとつの結論に辿り着いた。
「ここの壁、裏が空洞だ。広い。風は、その中に流れ込んでる」
「じゃあ、出口まで続いているはず」
「でも途中で崩れて、戻る道が塞がってるんだと思う」
フィオナが手帳に素早く書きつけた。
「吸い込み口は三つ。その三角形の中心に、整流の核があるはずよ」
シンの口の端が、勝手に持ち上がった。
「行こう。この先は、まだ誰も歩いてない」
「待って」
フィオナの眉が、ぎゅっと寄った。
「その台詞が、いちばん不安なのよ。入る前に、確かめておくことがあるでしょう」
***
「もう一回!」
「待て、数え間違えたろ、今」
「間違えてない!」
「七のあとに九って言った」
「言ってない!」
第五層の安全区画の小部屋に、二人の言い争う声が響いていた。壁は厚く、扉は鉄で、窓はない。ここなら、何が起きても他の誰にも迷惑がかからない。
確かめたいのは、頁の入れ替えだった。いま剣に宿っているのは《重圧》ひとつだけ。頁が増えたら、どうやって切り替えるのか。フィオナが古代文字を読み解いて、こう書き出していた。
『装填枠外の頁へ切り替えるには、納刀し、帳を開いて、連続十秒の再同調を要する』
「再同調っていうのは、頁を入れ替える手順のことね。十秒、連続で」
「長くないだろ」
「測ってみないと分からないわよ」
シンは刀を鞘に納め、帳を開いた。剣の頁を指先で撫でると、すっ、と体から力が引いた。指先、足元、腰の奥。重圧の感触が潮のように遠ざかり、体が急に頼りなくなる。
「一、二、三……」
フィオナの声が、真剣に数を刻む。そのとき、部屋の隅で、ネズミがちゅうと鳴いた。
シンの視線が、一瞬だけぶれた。ぷつん、と何かが切れる。
【再同調 中断 元の装填に戻ります】
「ほら見なさい!」
「ネズミが鳴いたんだぞ!」
「ネズミは鳴きます!」
二回目は、五まで数えたところで、扉の外を誰かが通った。三回目は、六まで数えたところで、フィオナ自身がくしゃみをした。
「俺のせいじゃない」
「私のせいでもないわよ」
「鼻をかんでから数えてくれ」
「かんだわよ!」
四回目に、やっと成功した。
【再同調 完了】
同じ頁に戻っただけだ。それでもシンは長く息を吐いて、壁にもたれた。額に汗が浮いている。
「……十秒って、こんなに長いのか」
「その間、貴方は剣の力が使えないの。ただの、足を挫いた十五歳の男の子」
「事実だけど言い方」
「だから、頁を替えるときは、そこに敵がいちゃ駄目。外が静かだと確かめてから、私が数える。いい?」
シンは、すぐには返事をしなかった。今まで全部ひとりで確かめて、ひとりで決めてきた。ひとりでやれるように、父に育てられた。だが十秒だけは、ひとりでは無理だ。
もし、これが戦場だったら。背中に、冷たいものが落ちた。
「……頁を替えるときは、安全を確かめて、フィオナに数えてもらう。お願いします」
「よろしい。数えるのは得意よ」
その直後に、七のあとに九と言ったことを、彼女は生涯、認めなかった。
後日、シンが手帳を覗いたとき、そのページの余白には、小さな字でこう書かれていた。
『七の次は八。八の次は九。……七の次は八』
三度、書き直されていた。
***
翌朝、二人はもう一度、風穴の三つの吸い込み口の中心に立った。
壁を、拳で叩いていく。こん、こん、と詰まった音が続いたあと、ある一点で、こぉん、と軽く抜けた。
「ここだ。裏が空いてる」
シンは、壁の岩肌を指でなぞった。苔と砂に隠れて、掌ほどの細い隙間が走っている。そこから、冷たい風が、ごうごうと音を立てて漏れていた。
フィオナが、ランタンの油を確かめた。残りは、あと二刻ぶん。
「這って入る幅ね」
「行こう。数える人は、後ろにいる」
「当たり前でしょう」
シンは隙間に肩を入れた。風が、吸い込まれるように奥へ向かって、髪を引いた。




