↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白地図の測量剣士 ~命綱を切られた地図描きは、歩いた階層を剣にする~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 最後の0.8パーセント

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/21

風が戻らない穴

黒鉄の巨坑、第一層。


 いちばん浅い場所なのに、そこは「静寂の風穴」と呼ばれて、誰も奥まで行かなかった。風が通り抜けるのに、出口の側では、その風を感じた人間が一人もいない。


 地図の次の版は、三日後に刷る。初心者が最初に迷い込むこの穴だけが白いままでは、刷る意味がない。


 洞窟の入口に立つと、肌に冷たい空気がまとわりついた。奥へ向かう風は、手を差し出すと、指の間をするりと抜けていく。


「おかしいよな」


 シンは細い布切れを指に結んで、掲げた。布は、奥へ吸い込まれるようにたなびいた。


「ここから入った風は、どこかへ抜けてる。風は消えないから、行き先があるはずなんだ」


 洞窟の奥から、かりかりと爪の音がした。灰色の影が三つ、岩陰から飛び出す。石鼠だ。猫ほどの大きさで、歯が岩を削る。初心者が最初に怪我をする魔物だった。


「下がって」


 シンは刀を抜き、一歩だけ前に出た。先頭の石鼠が跳ぶ。


 《重圧》。


 見えない掌が、鼠の背に乗った。ずん、と地面に張りつく。続く二匹も、足を踏み出した姿勢のまま、岩に押しつけられた。ちゅう、ちゅう、と悲鳴が上がったが、身動きはできない。


 刀の腹で、こつ、こつ、こつ、と頭を叩くと、鼠たちは白目を剥いて静かになった。殺す必要はなかった。


「……手際がよすぎて、感動する暇がないわ」


「褒めてる?」


「呆れてる」


 フィオナは気を取り直して、壁の古代文字を見上げた。細い線で、渦巻きの形が刻まれている。


「整流設備の印よ。川の水門と同じで、風を貯めたり、向きを変えたり、逃がしたりする仕掛け。だから、この風は誰かが意図的に導いてる。渦の脇に、もう一文字あるわ。『静』と読めると思う」


「静かにする、ってことか」


「風の設備なのに、不思議でしょう」


 シンは布切れを高く、低く、持ち替えながら歩いた。壁の厚みを叩いて測り、音を聞き、天井の亀裂の向きを見る。三刻かけて、ひとつの結論に辿り着いた。


「ここの壁、裏が空洞だ。広い。風は、その中に流れ込んでる」


「じゃあ、出口まで続いているはず」


「でも途中で崩れて、戻る道が塞がってるんだと思う」


 フィオナが手帳に素早く書きつけた。


「吸い込み口は三つ。その三角形の中心に、整流の核があるはずよ」


 シンの口の端が、勝手に持ち上がった。


「行こう。この先は、まだ誰も歩いてない」


「待って」


 フィオナの眉が、ぎゅっと寄った。


「その台詞が、いちばん不安なのよ。入る前に、確かめておくことがあるでしょう」


***


「もう一回!」


「待て、数え間違えたろ、今」


「間違えてない!」


「七のあとに九って言った」


「言ってない!」


 第五層の安全区画の小部屋に、二人の言い争う声が響いていた。壁は厚く、扉は鉄で、窓はない。ここなら、何が起きても他の誰にも迷惑がかからない。


 確かめたいのは、頁の入れ替えだった。いま剣に宿っているのは《重圧》ひとつだけ。頁が増えたら、どうやって切り替えるのか。フィオナが古代文字を読み解いて、こう書き出していた。


『装填枠外の頁へ切り替えるには、納刀し、帳を開いて、連続十秒の再同調を要する』


「再同調っていうのは、頁を入れ替える手順のことね。十秒、連続で」


「長くないだろ」


「測ってみないと分からないわよ」


 シンは刀を鞘に納め、帳を開いた。剣の頁を指先で撫でると、すっ、と体から力が引いた。指先、足元、腰の奥。重圧の感触が潮のように遠ざかり、体が急に頼りなくなる。


「一、二、三……」


 フィオナの声が、真剣に数を刻む。そのとき、部屋の隅で、ネズミがちゅうと鳴いた。


 シンの視線が、一瞬だけぶれた。ぷつん、と何かが切れる。


【再同調 中断 元の装填に戻ります】


「ほら見なさい!」


「ネズミが鳴いたんだぞ!」


「ネズミは鳴きます!」


 二回目は、五まで数えたところで、扉の外を誰かが通った。三回目は、六まで数えたところで、フィオナ自身がくしゃみをした。


「俺のせいじゃない」


「私のせいでもないわよ」


「鼻をかんでから数えてくれ」


「かんだわよ!」


 四回目に、やっと成功した。


【再同調 完了】


 同じ頁に戻っただけだ。それでもシンは長く息を吐いて、壁にもたれた。額に汗が浮いている。


「……十秒って、こんなに長いのか」


「その間、貴方は剣の力が使えないの。ただの、足を挫いた十五歳の男の子」


「事実だけど言い方」


「だから、頁を替えるときは、そこに敵がいちゃ駄目。外が静かだと確かめてから、私が数える。いい?」


 シンは、すぐには返事をしなかった。今まで全部ひとりで確かめて、ひとりで決めてきた。ひとりでやれるように、父に育てられた。だが十秒だけは、ひとりでは無理だ。


 もし、これが戦場だったら。背中に、冷たいものが落ちた。


「……頁を替えるときは、安全を確かめて、フィオナに数えてもらう。お願いします」


「よろしい。数えるのは得意よ」


 その直後に、七のあとに九と言ったことを、彼女は生涯、認めなかった。


 後日、シンが手帳を覗いたとき、そのページの余白には、小さな字でこう書かれていた。


『七の次は八。八の次は九。……七の次は八』


 三度、書き直されていた。


***


 翌朝、二人はもう一度、風穴の三つの吸い込み口の中心に立った。


 壁を、拳で叩いていく。こん、こん、と詰まった音が続いたあと、ある一点で、こぉん、と軽く抜けた。


「ここだ。裏が空いてる」


 シンは、壁の岩肌を指でなぞった。苔と砂に隠れて、掌ほどの細い隙間が走っている。そこから、冷たい風が、ごうごうと音を立てて漏れていた。


 フィオナが、ランタンの油を確かめた。残りは、あと二刻ぶん。


「這って入る幅ね」


「行こう。数える人は、後ろにいる」


「当たり前でしょう」


 シンは隙間に肩を入れた。風が、吸い込まれるように奥へ向かって、髪を引いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。