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白地図の測量剣士 ~命綱を切られた地図描きは、歩いた階層を剣にする~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 最後の0.8パーセント

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11/21

静寂の風穴

保守用の通路は、人が這ってようやく通れる幅だった。


 壁の裏の、そのまた奥。ごうごうと風が耳を叩き、ランタンの炎が横に寝て、今にも消えそうだった。油は、あと二刻ぶん。尽きる前に戻れなければ、暗闇の中を這って引き返すことになる。


「足元、気をつけて」


「貴方こそ。杖、置いてきたでしょ」


「もう平気だよ」


 先頭で這い進みながら、シンは頭の中で測量を続けた。壁の厚み、風の向き、音の反響。膝が擦れて、手のひらに砂がめり込む。それでも止まらなかった。


 やがて通路は、小さな空洞に抜けた。円い部屋で、天井から無数の細い管が垂れ、中央に白い石の柱が立っている。根元には金属の円盤があった。最後の観測点だ。


 柱の穴から風が吹き出して、そのまま壁の中へ吸い込まれ、渦を巻いている。ごお、と音が重なって、耳の奥が痛くなるほどだった。


 フィオナが、柱の根元の刻字に顔を寄せた。


「ここにも『静』の字。垂れてる管は、風を回しながら、音を吸う仕掛けみたい。耳が痛いのは、吸いきれない音がここに溜まってるからよ」


「溜まってる、のか」


「出口が詰まってるから。出口を探しましょう」


 柱の裏へ回ると、崩れた岩が通路を埋めていた。風はここで行き場をなくして、ぐるぐる回っていたのだ。


「どかすか。力のある人がいれば楽なんだけど」


「当てでもあるの?」


「ない。言ってみただけ」


 シンは岩に掌を当てた。あの日、落ちてくる岩を軽くしたのと同じだ。重さを抜けば、人の背丈ほどの岩でも、指先で動く。


 ごそ、ごそ、と岩がどいていく。そのたびに、風の唸りが少しずつ低くなる。最後のひとつを脇へ寄せた瞬間、ふうっ、と一陣の風が吹き抜けた。


 渦がほどけて、音が消えた。


 風は確かに流れている。髪が揺れているのに、何の音もしない。耳が痛いほどの無音が、部屋を満たしていた。フィオナが口を開いて、何か言った。唇が動いているのは分かるのに、声がしない。


(音が、吸われてる)


 シンは円盤に掌を置いた。


 かちり。


【静寂の風穴 測量認証率 100.0%】


【階層法則《静風》 記録】


 帳がひとりでに開いた。とたんに、音が戻った。


「――だから! 聞こえてる!?」


「聞こえてる。ごめん、聞こえてなかった」


「私も聞こえなかった! 何なのよ、もう!」


 二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


「じゃあ、頁を入れ替える。通路の入口は」


「静か。誰も来てない。……いつでも」


 納刀して、帳を開き、《重圧》を外して《静風》へ。


「一、二、三……」


 ネズミも鳴かず、通路の奥を誰も通らない。今度は、集中が切れなかった。


「……九、十」


【再同調 完了 装填:《静風》】


 体の周りに、薄い膜が張った気がした。風が肌を撫でない。抜いた刀を軽く振ってみると、風切り音が、しなかった。刃が空気を割く手応えはあるのに、音だけがどこにもない。


「すごい。剣を振っても音が出ないなんて、忍び込みに最高じゃない」


「でも、それだけだ。重さを操るほど派手じゃない」


「派手さが要るなんて、誰が言ったの。貴方の最初の一歩に、必要な力だと思うわ」


 シンは、悪戯を思いついた顔をした。刀を納め、そっと足を踏み出す。息を吸うあいだは、膜が厚くなって、足音までいっそう小さくなる。吐くと、少しだけ薄い。


 フィオナの後ろへ回り込み、とん、と肩を叩いた。


「ひゃあああああっ!?」


 ぱしーん。フィオナの手帳が、シンの頬にめり込んだ。


「いてっ」


「なにするのよ! 心臓止まるかと思ったじゃない!」


「実験」


「そんな実験いらない!」


 頬をさすりながら、シンは笑った。こんなに笑ったのは、久しぶりだと思った。


***


 洞窟の外に出ると、夕暮れだった。


 翌日、第五層の広場で、シンは刀を抜いて《静風》を纏った。体が軽い。風が背中を押している気さえする。


 見物人が数人、昼飯を食べながら、噂の地図屋の稽古を眺めている。フィオナは、石の上に腰を下ろして、膝に手帳を広げていた。


「見てろよ。《静風》があれば、俺は絶対――」


 地面を蹴った。速い。確かに、いつもより足が前へ出る。


 次の瞬間、がしゃーん、と足元の桶を盛大に蹴飛ばし、水を撒き散らし、勢い余って壁に突っ込んだ。


「ぶっ」


 見物人が、一斉に吹き出した。フィオナは顔を背けたが、肩が小刻みに震えている。


「笑うな」


「笑ってない」


「笑ってる」


「笑っ……ふふっ」


 壁に額を押しつけたまま、シンは呟いた。


「風があっても、剣は速くならないのか」


 静風は、音を消して風の抵抗を減らす。足そのものを速くはしない。薄々は分かっていたことだ。桶を拾い上げながら、彼は言った。


「重心が前に出すぎて、止まれないんだ。型が崩れてる」


 そのとき、父の声が頭の奥から蘇った。


『足は腰から出せ。膝で止めるな。重心は臍の下だ』


 故郷の裏庭。夕暮れの匂い。木の枝を持った父が、同じ型を、何日も同じ回数だけ繰り返させた。護身術だと言っていた。地図は、持って帰ってこそ地図だからと。


 当時は退屈でたまらなくて、足の裏にまめができ、泣きながら「もうやだ」と言った日もあった。父は怒らず、黙って、横で同じ型をやっていた。


 シンは静風を解いた。能力を全部切って、素の体で構えを取る。右手はまだ疲れているので、刀は鞘に置いたまま、足だけでいい。


 一歩。腰から。次の一歩。臍の下に重心。


 十回。二十回。三十回。顎から汗が落ち、膝が笑い出す。それでも続けた。


 見物人は、いつの間にか、一人も笑っていなかった。五十回を超えたころ、フィオナがぽつりと言った。


「……さっきより、足音が小さい」


 速さは変わらないのに、足のぶれが減っていた。身体が、思い出していた。


「力より先に、基礎だな。今度、父さんに手紙で礼を言う」


「最初の返事に書くのが、桶のことじゃないといいわね」


「書かない」


「書いたら、私が追伸を入れてあげる」


「やめろ」


 手拭いが、ばさりと顔に投げつけられた。汗を拭いながら、シンは、空気がいつもより澄んでいるのに気づいた。


 そのとき、地面がかすかに震えた。


 遠くの坑道の奥から、誰かの絶叫が、こちらへ近づいてくる。


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