静寂の風穴
保守用の通路は、人が這ってようやく通れる幅だった。
壁の裏の、そのまた奥。ごうごうと風が耳を叩き、ランタンの炎が横に寝て、今にも消えそうだった。油は、あと二刻ぶん。尽きる前に戻れなければ、暗闇の中を這って引き返すことになる。
「足元、気をつけて」
「貴方こそ。杖、置いてきたでしょ」
「もう平気だよ」
先頭で這い進みながら、シンは頭の中で測量を続けた。壁の厚み、風の向き、音の反響。膝が擦れて、手のひらに砂がめり込む。それでも止まらなかった。
やがて通路は、小さな空洞に抜けた。円い部屋で、天井から無数の細い管が垂れ、中央に白い石の柱が立っている。根元には金属の円盤があった。最後の観測点だ。
柱の穴から風が吹き出して、そのまま壁の中へ吸い込まれ、渦を巻いている。ごお、と音が重なって、耳の奥が痛くなるほどだった。
フィオナが、柱の根元の刻字に顔を寄せた。
「ここにも『静』の字。垂れてる管は、風を回しながら、音を吸う仕掛けみたい。耳が痛いのは、吸いきれない音がここに溜まってるからよ」
「溜まってる、のか」
「出口が詰まってるから。出口を探しましょう」
柱の裏へ回ると、崩れた岩が通路を埋めていた。風はここで行き場をなくして、ぐるぐる回っていたのだ。
「どかすか。力のある人がいれば楽なんだけど」
「当てでもあるの?」
「ない。言ってみただけ」
シンは岩に掌を当てた。あの日、落ちてくる岩を軽くしたのと同じだ。重さを抜けば、人の背丈ほどの岩でも、指先で動く。
ごそ、ごそ、と岩がどいていく。そのたびに、風の唸りが少しずつ低くなる。最後のひとつを脇へ寄せた瞬間、ふうっ、と一陣の風が吹き抜けた。
渦がほどけて、音が消えた。
風は確かに流れている。髪が揺れているのに、何の音もしない。耳が痛いほどの無音が、部屋を満たしていた。フィオナが口を開いて、何か言った。唇が動いているのは分かるのに、声がしない。
(音が、吸われてる)
シンは円盤に掌を置いた。
かちり。
【静寂の風穴 測量認証率 100.0%】
【階層法則《静風》 記録】
帳がひとりでに開いた。とたんに、音が戻った。
「――だから! 聞こえてる!?」
「聞こえてる。ごめん、聞こえてなかった」
「私も聞こえなかった! 何なのよ、もう!」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
「じゃあ、頁を入れ替える。通路の入口は」
「静か。誰も来てない。……いつでも」
納刀して、帳を開き、《重圧》を外して《静風》へ。
「一、二、三……」
ネズミも鳴かず、通路の奥を誰も通らない。今度は、集中が切れなかった。
「……九、十」
【再同調 完了 装填:《静風》】
体の周りに、薄い膜が張った気がした。風が肌を撫でない。抜いた刀を軽く振ってみると、風切り音が、しなかった。刃が空気を割く手応えはあるのに、音だけがどこにもない。
「すごい。剣を振っても音が出ないなんて、忍び込みに最高じゃない」
「でも、それだけだ。重さを操るほど派手じゃない」
「派手さが要るなんて、誰が言ったの。貴方の最初の一歩に、必要な力だと思うわ」
シンは、悪戯を思いついた顔をした。刀を納め、そっと足を踏み出す。息を吸うあいだは、膜が厚くなって、足音までいっそう小さくなる。吐くと、少しだけ薄い。
フィオナの後ろへ回り込み、とん、と肩を叩いた。
「ひゃあああああっ!?」
ぱしーん。フィオナの手帳が、シンの頬にめり込んだ。
「いてっ」
「なにするのよ! 心臓止まるかと思ったじゃない!」
「実験」
「そんな実験いらない!」
頬をさすりながら、シンは笑った。こんなに笑ったのは、久しぶりだと思った。
***
洞窟の外に出ると、夕暮れだった。
翌日、第五層の広場で、シンは刀を抜いて《静風》を纏った。体が軽い。風が背中を押している気さえする。
見物人が数人、昼飯を食べながら、噂の地図屋の稽古を眺めている。フィオナは、石の上に腰を下ろして、膝に手帳を広げていた。
「見てろよ。《静風》があれば、俺は絶対――」
地面を蹴った。速い。確かに、いつもより足が前へ出る。
次の瞬間、がしゃーん、と足元の桶を盛大に蹴飛ばし、水を撒き散らし、勢い余って壁に突っ込んだ。
「ぶっ」
見物人が、一斉に吹き出した。フィオナは顔を背けたが、肩が小刻みに震えている。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってる」
「笑っ……ふふっ」
壁に額を押しつけたまま、シンは呟いた。
「風があっても、剣は速くならないのか」
静風は、音を消して風の抵抗を減らす。足そのものを速くはしない。薄々は分かっていたことだ。桶を拾い上げながら、彼は言った。
「重心が前に出すぎて、止まれないんだ。型が崩れてる」
そのとき、父の声が頭の奥から蘇った。
『足は腰から出せ。膝で止めるな。重心は臍の下だ』
故郷の裏庭。夕暮れの匂い。木の枝を持った父が、同じ型を、何日も同じ回数だけ繰り返させた。護身術だと言っていた。地図は、持って帰ってこそ地図だからと。
当時は退屈でたまらなくて、足の裏にまめができ、泣きながら「もうやだ」と言った日もあった。父は怒らず、黙って、横で同じ型をやっていた。
シンは静風を解いた。能力を全部切って、素の体で構えを取る。右手はまだ疲れているので、刀は鞘に置いたまま、足だけでいい。
一歩。腰から。次の一歩。臍の下に重心。
十回。二十回。三十回。顎から汗が落ち、膝が笑い出す。それでも続けた。
見物人は、いつの間にか、一人も笑っていなかった。五十回を超えたころ、フィオナがぽつりと言った。
「……さっきより、足音が小さい」
速さは変わらないのに、足のぶれが減っていた。身体が、思い出していた。
「力より先に、基礎だな。今度、父さんに手紙で礼を言う」
「最初の返事に書くのが、桶のことじゃないといいわね」
「書かない」
「書いたら、私が追伸を入れてあげる」
「やめろ」
手拭いが、ばさりと顔に投げつけられた。汗を拭いながら、シンは、空気がいつもより澄んでいるのに気づいた。
そのとき、地面がかすかに震えた。
遠くの坑道の奥から、誰かの絶叫が、こちらへ近づいてくる。




