大槌の運び手
「どけぇぇぇぇえ! 荷が止まらねえええ!」
第二層の斜面を、石材を積んだ荷車が転がり落ちてきた。縄は切れ、車輪の制動もない。坂の下では十二人の人夫が足場を組んでいて、背後の轟音にまだ気づいていなかった。
荷車が坂の底に着くまで、十秒もない。
シンは走った。装填は《静風》で、足は地面を舐めるように滑る。それでも荷車のほうが先に着く。《重圧》に切り替える十秒は、どこにもなかった。
腰の袋には、車輪止めの木の楔が二本入っている。測量の足場に噛ませるために、いつも持ち歩いているものだ。
そのとき、巨大な影が荷車の前に立ちはだかった。赤茶の短髪の青年だった。肩幅は大人の二倍あり、背には人の背丈ほどの大槌を負っている。彼は荷車の縁に両手をかけて腰を落とし、全身で踏ん張った。
「ぐ、お、おおおおお!」
靴底が地面を削り、轍が深く沈む。荷車は止まらないが、確かに遅くなっていた。人夫たちは悲鳴を上げて散っていく。
「今だ、小さいの! 楔を車輪の下へ!」
シンは反射で動いた。静風の足で荷車の脇へ滑り込み、車輪と地面のあいだに楔を叩き込む。一本目で車輪が軋み、二本目で荷車は斜面の途中にようやく止まった。
坑道が静まり返り、人夫たちがへなへなとその場に座り込んだ。青年が荷車から手を離すと、手のひらから白い煙が上がっている。それでも彼は、歯を見せて笑った。
「助かったぜ。咄嗟に楔を入れるとは、いい手だ」
「小さいのって」
「十五くらいだろ。俺は十七だ、年上だ」
豪快な笑い声のあと、青年の腹が、ぐううと洞窟に響いた。
「悪い。昼がまだなんだ」
「聞こえてたわよ、全部」
追いついたフィオナが、呆れ顔で言った。
「バルト・アイアンズだ。運搬屋をしてる」
「シンです。こっちはフィオナ」
「ああ、噂の地図描き! 黒鉄の天井を歩いたってやつだろ!」
「噂が盛られてる」
「盛られてないでしょ。実際に歩いたんだから」
バルトは頭をぼりぼり掻いた。
「で、何の用だ。礼ならいらねえぞ。飯ならもらうが」
「調査に同行してほしい」
シンは真っ直ぐに言った。
「足場を支える人が要るんだ。壁を壊したり、荷を運んだりも。日当は銀貨五枚で、危険な日は倍。食事つき」
「五枚! 倍! 食事つき!」
「ちょっと、少しは考えなさいよ!」
「考えたぜ。今、三秒考えた」
フィオナが額を押さえた。そこへ人夫の一人がおずおずと近づき、小さな袋を差し出した。銅貨が数枚入っている。
「あんたが止めてくれなきゃ、俺ら全員、石の下だった。少ないが、これを」
「受け取れねえよ」
バルトが袋を押し戻した。
「それは今日の弁当代だろ。家で待ってる人がいるんじゃないのか」
人夫は目を見開いて、何度も頭を下げた。シンは少し離れて、その様子を見ていた。ただの大食らいではない、と思った。一人で歩いていた頃には、なかった騒がしさがそこにあった。
***
黒鉄の第三層。回廊の突き当たりに、古い保守図で「閉鎖扉」と記された分厚い隔壁があった。ここを抜ければ、次の観測点まで半日の近道になる。迂回すれば丸一日かかるが、今日のランタン油はそこまで持たない。
「壊していいか?」
バルトが大槌を握りしめ、目を輝かせた。
「だめ」
シンが答えるより先に、フィオナが叫んだ。
「上に何があるか分からないでしょう!」
バルトが拳で壁を叩くと、ごん、と鈍い音が返った。硬い。叩き甲斐がありそうだ、と彼は嬉しそうに言った。
シンは隔壁の継ぎ目にしゃがみ込んだ。細い砂が、ひと筋ずつ落ちている。見上げると、天井の梁はこの壁の真上で途切れていた。指の関節で壁を叩き、返ってくる音を聞く。中が詰まった、重い音だった。
「バルト。この壁は、上の岩盤の重みを受けてる。壊すと、その重みが一度に落ちてくるかもしれない」
「あー」
バルトは口を開けて天井を見上げた。さっきまでのやんちゃな顔が、すっと引き締まる。
「つまり、壊す前に支えを入れる」
「そう。柱を四本、壁の両脇に」
彼は大盾を下ろして壁際に立て掛け、持参した太い木の柱を床から天井まで押し込んでいった。ぐ、と木が軋む。シンは右、右、と指で位置を示し、四本目で頷いた。
「完璧だ」
「じゃあ、壊す!」
大槌が振り下ろされ、隔壁の真ん中に、人の通れる穴が空いた。天井から粉がぱらぱらと降ったが、四本の柱は一ミリも動かなかった。
「壊す人だと思ってたのに」
フィオナが息を呑んだ。
「支えるのまで上手いなんて」
「実家が土木屋でな。親父に怒鳴られながら、柱の立て方を叩き込まれた。壊していい壁と、駄目な壁を見分けるのが職人だ」
「でも、さっき真っ先に『壊していいか』って聞いたわよね」
「それは、ほら。確認だ」
「確認になってないわよ」
フィオナの手帳の角が、バルトの腕を突いた。バルトは「いてえ」と笑っている。
シンは、穴の向こうの暗がりを見ていた。粉塵が晴れると、手つかずの回廊が伸びている。壁には、保守図のどこにも載っていない細い線の模様が走っていた。
何本もの線は途中で寄り集まり、回廊の奥の一点を指している。
一人では越えられなかった壁が、二人目の腕であっさり開いた。そのことが胸の奥を温めたが、いまはそれよりも、線の先が気になった。
「あの線が集まる点に、何があるんだ」
「行けば分かるわ。慎重にね」
「分かってる」
三人の足音が、新しい回廊に吸い込まれていった。




