硬いパンの食卓
谷の向こうの観測点まで、渡れる橋は、崩れかけた板の列ひとつしかなかった。今日のうちに渡らなければ、ランタンの油が尽きて、この観測点は明日へ持ち越しになる。
回廊の奥は予想以上に脆く、床板は古く、足場は傾いていた。谷のような吹き抜けの底は暗く、落とした小石はいつまで経っても音を返さない。
「これ、渡れるのか?」
バルトが覗き込んだ。シンは橋の根元にしゃがみ込み、橋桁の脇の岩を調べた。縦に走る割れ目がある。人の腕が入る幅で、奥は硬い岩だ。
「重さを分散させれば行ける。一人ずつ、縄を張りながら」
「それで足りるのか」
「足りないかもしれない。橋の中ほどで板が抜けたら、この割れ目に槌の柄を噛ませてくれ。ほかに支点になる場所がない」
「割れ目な。覚えた」
フィオナが、橋の端に縄を結びながら顔をしかめた。
「待って。橋が丸ごと落ちる場合も、先に言って。私が縄を持つ位置が変わるから」
「落ちるかもしれない。その場合は、縄を離してくれ」
「それを今、聞きたかったの」
シンは細い縄を橋に張り、重心を確かめながら先に渡った。一歩ごとに板が軋み、足元の闇が口を開けて待っている。向こう岸の崖に、観測点の台座が埋まっていた。目と鼻の先なのに、足場が崩れて近づけない。
「バルト、来てくれ!」
「おう!」
バルトが橋に足を乗せた。ぎし、ぎし、と板が悲鳴を上げ、その中ほどで、ばきっと嫌な音が響いた。橋が真ん中から大きく沈む。
バルトは膝をつくなり、大槌の柄を岩の割れ目へ突き立てた。ガンッと鈍い音がして、柄が岩に噛む。体重の半分が、そこで支えられた。
「おおおっ!」
「持たせて! あと三歩で台座に届く!」
「無茶言うな、腕が持たねえ!」
「頼む!」
一歩、二歩。三歩目で、シンは台座の円盤に掌を叩きつけた。かちり、と観測点が青く光る。
「いまだ、渡れぇ!」
バルトが槌を引き抜き、全力で駆けた。シンも静風の足で橋を駆け抜ける。二人が崖に転がり込んだ直後、背後で橋が丸ごと崩れ落ち、轟音と土煙が谷を満たした。
向こう岸に転がった二人は、荒い息のまま顔を見合わせ、同時に笑い出した。
「すげえな、お前!」
「割れ目に槌を噛ませたのは、バルトだ」
「いや、あの割れ目を見つけたのはお前だろ。見てなきゃ、俺は一緒に落ちてた」
橋のこちら側で、フィオナが青ざめて立ち尽くしていた。唇が真っ白だった。
「二人とも、死んだかと思った。次は渡る前に、全部言って。約束して」
「約束する」
フィオナはずるずるとしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。肩がしばらく小さく震えていた。バルトが、ばつの悪そうな顔で頭を掻いた。
「悪かった。心配かけたな」
「うん。どっちでもいいから、ご飯にして」
くぐもった声に、男二人は顔を見合わせて笑った。
***
黒鉄の第八層には、保守用の休養区画があった。天井が高く、小さな灯りが壁に点々と灯っている。奥には石組みの炉と水場と長い机があったが、長く放っておかれたせいで、何もかもが煤で真っ黒だった。
まずは掃除だ。フィオナが袖をまくって鍋を洗い、バルトは傾いた長椅子を釘と木槌であっという間に水平に戻した。シンは机の角度ばかり気にしていた。
「地図を広げるなら、もう少し傾けたほうが」
「汁が冷めるでしょう。先に食べなさい」
フィオナが、湯気の立つ鍋を机にどんと置いた。干し肉と根菜の汁で、味付けはバルトの目分量だった。硬いパンを湯に浸し、ふやけた端を匙で崩して口に入れる。三人とも黙った。
「……うま」
「あったかい」
干し肉の塩気が舌に広がり、遅れて根菜の甘みが追いかけてくる。バルトが三杯目を平らげる頃、フィオナの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「どうした」
「ううん。家で誰かとこういうの食べるの、久しぶりだなって」
誰もすぐには答えられなかった。バルトが大きな手で、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「やめて! 髪が汁に入る!」
「泣くな。うまいもんは、泣きながら食うともっとうまい」
「そんな理屈ないわよ」
フィオナは怒りながら笑い、目の端からはまだ涙が出ていた。
シンは匙を置いて白地図帳を開いた。空白だった第八層の頁に、小さな印を描き込む。屋根の形をした、温かい、という意味の新しい記号だった。
「それは?」
「帰りたい場所。地図に描いたのは、初めてだ」
フィオナとバルトが顔を見合わせ、「それなら、ここを直さなきゃね」「煙突もだな」と相談を始めた。
シンは図面を取り出し、炉の位置を測りはじめた。煙の抜ける向きを確かめようと石の床に掌をつけたとき、指が止まった。
床が温かい。炉からはずっと離れた、北の壁際だ。壁に耳を当てると、石の奥を低い水音が流れている。温かい水が、壁の向こうに溜まっているのだ。
「フィオナ。この壁の裏に、湯がある」
「湯? 温泉ってこと?」
「分からない。ただ、水が温かい。そして、どこかで止まってる」
バルトが、匙を持ったまま立ち上がった。
「風呂か」
「まだ決まってないわよ」
「決まった。俺が決めた」
シンは壁の石を指先でなぞった。この湯は、どこから来て、どこで詰まっているのか。それを測るのは、明日の仕事になった。




