水路をつなぐ
父の返事は、二行だった。
『安全確認を省くな。
追伸、小石は重すぎて、郵便代が銀貨一枚かかった』
シンは机に突っ伏して、しばらく肩を揺らしていた。減ったのは、送った本人の財布ではなく、受け取った父の財布の銀貨一枚だ。横から覗いたフィオナが言った。
「いいお父さんじゃない」
「地図のことしか書かない人なんだ。手の具合も書いてない」
手紙にはもう一枚、細い角張った字の折り込みがあった。
『フィオナ殿。息子の字は読みにくいが、地図は正しい。字のほうは殴って直して構わない』
「殴らないわよ?」
「そこは分かってる」
フィオナは便箋を胸に押し当てて、小さく鼻を鳴らした。先週、シンの手紙の余白に二行足したのは彼女だ。何を書いたのかは、いくら訊いても教えてくれなかった。
シンは返事を内ポケットにしまうと、第八層の水路図を広げた。昨日見つけた温かい水は、詰まった水路の奥で止まっている。フィオナが、古い図の隅に小さな印を指した。
「上の層の貯水が増える雨期まで、あと七日。それまでに通さないと、詰まりが泥で固まって、来年まで直せなくなるわ」
「七日で、第二層から第四層の側路を全部潰すのか」
「全部じゃなくて、詰まりの場所だけ。見つけるのは貴方の仕事よ」
新しい図の隅に、日付と期限を書き込んだ。インクが滲むほど、強く。
「力みすぎ。ほら、紙が破れてる」
破れていた。シンは破れた紙を見つめて黙った。完璧にやろうとすると、手に力が入る。力が入ると、字が崩れる。崩れた字は読めない。読めない地図は、人を死なせる。
父はそのことを知っていたから、二行しか書かなかったのかもしれない。
「新しい紙、持ってくる」
「ありがとう。今度は破らない」
「本当に?」
「約束する」
***
作業は地味だった。シンが水の音と壁の湿りを頼りに詰まりを測り、フィオナが古い水路図で流れの向きを読み、バルトが塞いだ瓦礫をどかした。
この日の装填は《重圧》で、岩の重さを抜けば、バルトの肩に載るほどに軽くなる。
逆に、通路の幅いっぱいに掌を向ければ、広い床を一度に押さえつけることもできた。ただし重さが届くのは、掌を向けた通路の内側だけだ。外へ一歩出れば、ただの床と変わらない。
最初の詰まりは、第二層の側路にあった。崩れた梁が水路をまたいで落ち、その上に瓦礫が積もって、水を完全にせき止めている。バルトが肩を当てても、梁は一寸も動かなかった。
「力任せに引くと、上の瓦礫が崩れて、水路ごと潰れるぞ」
「なら、梁だけを軽くすればいい」
シンは梁に掌を当て、重さを抜いた。バルトが片手で梁を持ち上げ、そっと脇へ下ろすと、堰を切ったように、濁った水が足元を流れていった。
フィオナが両手を挙げて、水の向きを手帳に書き留める。詰まりは、これで一箇所目が消えた。
三日目、最初の水が一本つながった。ちょろちょろと細い水が石の溝を這うのを、三人は無言で拳を合わせて見送った。
そこへ、第四層の暗がりから岩蟹の群れが湧いた。石の甲羅を背負った蟹が二十匹。ハサミは大人の腕ほどあり、挟まれれば骨が砕ける。無数の足が石を叩く音が、洞窟に反響した。
「俺が壁になる!」
バルトが盾を構えたが、シンは前に出た。刀は抜かず、手だけを床へ伸ばす。
《重圧》。
床一面に、見えない掌が降りた。蟹たちは一斉に腹を床につけ、ハサミを持ち上げようとして、持ち上がらない。足をばたつかせても前へ進めず、二十匹の甲羅が床の上でがちゃがちゃと鳴っているだけだった。
「…………俺の出番は」
「あとで、こいつらを運んでほしい」
「運ぶ? 倒さねえのか」
「生きたまま運べば新鮮だろ。鍋にすれば、いい出汁が出るって聞いた」
バルトが感動と呆れの混じった顔をした。フィオナが蟹を一匹ひっくり返し、腹の殻を叩く。
「身がぎっしり。今夜は蟹汁ね」
バルトが盾を放り出し、蟹の山に飛び込んだ。次の瞬間、尻をハサミでつままれて悲鳴を上げた。
「いてえええ!」
「重圧の外に出たからよ」
「早く言え!」
七日目の夕方、水路の最後の弁を開けると、岩の奥でごぼ、と地鳴りがした。壁の石組みの隙間から、湯気が噴き上がる。同時に帳が震えた。
【黒鉄の巨坑・第八層 測量認証率 100.0%】
石組みの浴槽に湯が満ち、三人が足を伸ばせる広さになった。第九層は、側路を測るついでに、先に金色になっている。残る第十層は、階段の先だった。
衝立の向こうでは、フィオナが「……あったかい」と気の抜けた声を漏らしていた。聞こえてるぞ、と薪を割りながら言ったバルトに、湯桶が飛んだ。
夜、蟹汁をすすって、冷やした果汁をあおり、シンは階段の下をのぞいた。ひと月ほど前は足を引きずって歩いていた自分が、遠い他人のように思える。
そのとき、足の裏に、かすかな振動が伝わった。一定の間隔で、床が鳴っている。階段の先、第十層のほうからだ。
「いまの、感じたか」
「ああ。何かが、拍を打ってる。ずっと前からだ」
バルトが、ぱしんと胸を叩いた。階段の闇の奥で、何かがこちらを待っている。




