一枚しか持てない
食料は、残り六日分だった。六日のうちに第十層の最後の観測点へ届かなければ、補給に戻る往復で、この遠征は終わってしまう。
第十層は、広い一室だった。天井は高く、床には石と金属の板が隙間なく並んでいる。北東の隅だけは金属が張られず、古い石にひびが走っていた。壁の燭台が、青白い光を揺らしている。
部屋の中央に、黒い影が立っていた。黒鉄の司門。人の三倍ほどもある守護機で、四角い胴に鋼の腕が二本、円柱の脚が生えている。顔はなく、胸の中央に赤い灯りがひとつ点っていた。
灯りは、緑と赤を一定の間隔で行き来している。フィオナが唇だけで、その間隔を数えはじめた。
足元には、これまで挑んだ者たちが残したものが散らばっていた。折れた剣、凹んだ盾、千切れた外套。
「あの剣、鉄鷲団のだな」
バルトが低く呟いた。フィオナの声が硬かった。
「来て、負けて、引き返したのよ。だから黒鉄の地図は、この手前で止まってる」
「行くぞ。合図を」
シンは入口の陰から、歩数で距離を測った。入口から司門まで、四十歩ほどある。重さを抜いた足なら、気づかれる前に半分は詰められるはずだった。
作戦は一つだけだった。静かに近づき、肩か頭の上から背中の継ぎ目を斬る。重圧を乗せた刃なら、鋼の胴でも継ぎ目なら通る。バルトは盾で正面を引き受け、フィオナは入口から全体を見張る。
「三、二、一」
シンは床を蹴った。装填は《重圧》。守護機の首のない胴がぐるりと回り、赤い灯りがシンを捉える。見た目よりずっと速い。横から迫る鋼の拳を跳んで越え、重さの向きを変えて、肩にひらりと着地した。
上からなら、背中の継ぎ目が見える。刃を振り下ろし、重圧を乗せた。
手応えが、なかった。
刃が当たった瞬間に荷重が吸い取られ、守護機の足元の床板が二枚、がくんと沈んだのだ。重さはそのまま床へ逃がされ、胴の内側で何かが動く。次の瞬間、反転した腕がシンの体を薙ぎ払った。
視界が回り、壁と床と天井が順に目に飛び込んだ。叩きつけられる寸前に大盾が割り込み、ごおんと腹に響く音が部屋を揺らす。
「バルト!」
「平気だ! 下がれ、いったん!」
「撤退!」
フィオナの叫びで、三人は転がるように入口へ走った。守護機は追ってこなかった。持ち場から離れない造りらしい。
通路の壁に背を預けて、全員が荒い息を吐いた。バルトの大盾には、拳の形の凹みがくっきり残り、ひしゃげた鉄がまだ熱を持っている。
バルトの左腕は痺れて、指が開かなくなっていた。フィオナが無言で包帯を巻き、きつく結ぶ。バルトは「いてえ」とは言わなかった。それが一番まずい、とシンには分かった。
「効かなかった」
「いや、受け流された。荷重を床に逃がされたんだ」
シンの声はかすれていた。
「足元の板が二枚、沈んだ。逃がせない場所に誘い込めれば、重圧は通る」
「もうひとつ問題があるわ」
フィオナが手帳を開いた。
「貴方が避けるには静風が要る。でも倒すには重圧が要る。装填は一枚だけ。戦闘中に十秒、入れ替えなきゃいけない」
「その十秒、無防備だ」
シンは拳を握り、爪が掌に食い込んだ。測って、確かめて、準備した。それでも一撃も通らなかった。
「十秒くらい、俺が稼いでやるよ」
バルトが凹んだ盾を、がん、と叩いた。笑った顔は血の気を失い、膝はまだ震えている。
シンは何も言えなかった。ただ、頭の中で、あの機械の足元を何度も再生していた。沈んだ床板の位置。拳を振る前の、わずかな溜め。
そして、投げ飛ばされながら見た北東の隅。守護機の足がそこに近づいたとき、ひびの入った古い石は、一枚も沈まなかった。
負けた、と思った。けれど悔しさの底に、別の何かがちらちらと光っている。解けない図面を前にしたときの、あの痺れるような感覚だった。
***
翌日、三人は第十層に入らなかった。代わりに、第九層の階段から入口までの通路に、杭と縄を打ち続けた。手すりを渡し、滑る床に砂をまき、壁に白い粉で矢印を描いていく。
「撤退は、必ずまた要るわ」
フィオナが縄の端を引いて、強度を確かめた。
「そのとき道が分からなかったら、全員が危ない。貴方、昨日は一度も後ろを見なかったでしょう」
「余裕がなかった」
「だから先に道を作るの」
むっとして、シンは杭を打つ手に力を込めた。かん、かん、と音が響く。反対側の杭を打っていたバルトが、ひとつ笑って、フィオナの投げた縄の束を尻で受け止めた。
バルトは太い梁を肩に担いで、昨日の盾の凹みを指で撫でながら、黙々と運んだ。
夕方には、通路は、目をつぶっても出口まで歩ける道になった。端から端まで歩くと、かかった時間は、昨日の撤退のおよそ半分だった。並んだ矢印を、シンは指でなぞった。
「後ろを見る余裕、か」
「何?」
「いい道だなって」
フィオナは何も言わず、矢印を一本、指でなぞり返した。
夜の階段に三人で座り、干し肉をかじった。ぱさぱさしていて、少し塩辛い。それでも、悪い夜ではなかった。
シンは帳の余白に、図を描いた。守護機の足元で沈む二枚の板と、沈まなかった北東の隅。あの巨体を、隅まで連れていけるのか。それを確かめるのが、明日からの仕事になる。




