この階層は、俺の領土だ
「聞こえなかったのか。帳を渡せと言ったんだ」
ギルバートが一歩踏み出すと、後ろの団員たちも、迷いながら武器を構えた。雇った地図描きを斬る気はなくても、脅して奪う程度なら躊躇しない。そういう目をした者が、八人のうち五人もいた。
「やめてください、団長!」
マテオが叫ぶ。
「恩人でしょう!」
「荷運びは黙ってろ。クランの契約だ。探索で得た成果は全て団のもの、決まりだ」
「決まり、ですか」
シンは、靴の先で足元の床をこつんと叩いた。
ボス部屋の床には、金属の板が円形に敷かれている。古代の保守者が重い荷を載せて測るための点検台。第五層が安定化済みになったいま、この板はシンの管理下にある。
使い方を教わった覚えはなかった。制動輪を回した瞬間に、頭の奥へ流れ込んできた。床の荷重設定。
「そうですね。契約はありました」
顔を上げた。
「索と一緒に、あなたが切りましたけど」
空気が止まった。
ギルバートの頬がぴくりと引きつる。
「……貴様ァッ!」
曲がった大剣が振り上げられた。
――ずしん。
腕が、床に引きずり込まれた。
大剣が落ちる。刃が金属板に突き刺さって、抜けない。ギルバートは両手で柄を握り、顔を真っ赤にして引き上げようとした。
「な、なんだ、剣が、重い……っ!」
「団長!?うわ、俺の槍も!」
「斧が上がらねえ!」
「杖が、床に張りついて……!」
次々と悲鳴が上がる。
剣が、槍が、斧が、杖が、持ち主の手から滑り落ちて、点検台に吸いつくように貼りついた。武器だけではない。鎧の肩当て。腰の水袋。背中の荷。立っていられなくなった団員たちは膝をつき、手をつき、ついには全員が這いつくばって、額を床にこすりつけた。
八人と一人の精鋭が、シンの前で、きれいに頭を下げている。
「……すげえ、土下座みたい」
マテオが呟いた。
「マテオ」
「あ、すんません」
シンは重圧を緩めて、一歩前に出た。ざり、ざり、と靴音が広間に響く。這いつくばったギルバートの目の前で足を止める。
「この床の上だけです」
淡々と言った。
「ここは固定の点検台なので。外で他人の足元を重くすることは、俺にはできません。たぶん」
「た、たぶん、だと……!」
「まだ全部は分かってないんです。でも」
しゃがんで、床すれすれのギルバートの顔を覗き込んだ。目が合った。A級クランの団長が、泥だらけの地図描きを前にして、ひどく小さく見えた。
床の金属板が、金色にふわりと光る。黒鉄の重圧洞全体が、ゆっくり呼吸した。
「ひとつだけ、言っておきます。この階層は、俺の領土です」
怒鳴りも脅しもしなかった。ただ、事実を告げる声だった。
「ここではもう、誰にも救助索を切らせない」
ギルバートの顔から、血の気が引いた。
恐怖ではなかった。生まれて初めて、本物の無力を知った男の顔だった。
シンは立ち上がって、広間を見回した。壊れた装甲。這いつくばった団員。鼻をすすっているマテオ。それから、少しだけ疲れた声で付け加えた。
「怪我人は、後ろの通路から出られます。出口まで灯りをつけましたから。動けるようになったら、帰ってください」
「……え?」
副長のロイドが、床から顔を上げた。
「助けて、くれるのか。あんたを切り捨てた、俺たちを」
「契約は切れましたけど、置いていくのは、違うので」
それだけ言って背を向けた。
マテオが慌てて追ってくる。
「待ってくださいよ、シンさん!荷物、俺持ちます!」
「ありがとう。……足、いてて」
「だから肩貸しますって!」
二人の背中が、金色の灯りの中を遠ざかっていく。
その後ろで、ロイドが、団長の曲がった剣から、ゆっくりと手を離した。
***
夜。
迷宮ギルドは、日没後も酒場の喧騒で膨れ上がっていた。
シンはマテオに支えられて扉をくぐった。泥と埃にまみれ、右手には包帯、左足には添え木。受付の女性が目を丸くしたが、構わずに帳場の脇の長椅子へ腰を下ろす。
「あー、足……これ、本当に折れてるかも」
「待っててください!医者呼んできます!」
マテオが駆け出していった。
一人になって、長椅子の背にもたれた。たった一日で、人生が丸ごとひっくり返った。生きて帰ってきたことさえ、まだ現実味がない。
ふと手の中の本を開く。
表紙の隅に、小さな印が刻まれている。三本の線が重なる、王冠のような紋章。ずっと前からあった。神殿の鑑定士は何も言わず、シン自身も意味を知らない。
「それ」
隣の席から声がした。
少女がこちらを見ていた。亜麻色の髪を、鉛筆一本で無造作に留めている。指先はインクで真っ黒。膝の上には擦り切れた古文書の束。掲示板に貼られた「古代文字の翻訳者求む」の依頼書を、さっきからずっと睨んでいた子だ。
彼女は、シンの帳の表紙を、穴があくほど見つめていた。
「その印」
「え?」
「王冠じゃないわ」
言い切った。
「工具よ」
「……工具?」
「古代の保守者が持っていた、点検用の工具の紋章。施設を管理する人だけに許された道具の印。誰も読めなかったの。私も五年かかって、やっとそこだけ読めた」
彼女の目が、火花みたいに光った。
「ねえ。あなた、それを実際に見たの?」
実際に、見た。
天井を歩いた。重さを握った。階層を、この手で止めた。
「見た」
シンは答えた。
「道も、描いた」
少女は息を呑んだ。膝の古文書が、ばさりと床に落ちた。
「……名前、教えて」
「シン」
「私はフィオナ。フィオナ・シルフィード。碑文士よ」
インクで真っ黒な手が、ぐいと差し出される。
「その本の文字、読ませて。タダでとは言わない。あなたの歩いた道の意味は、私が解く」
圧の強さに、シンは目をぱちぱちさせた。それから、笑った。さっきまでの疲れが、少しだけ軽くなった気がした。
「いいよ。ただし、先に医者を待たせて」
「あなた足が折れてるの!?早く言いなさいよ!」
フィオナが大声を上げて、ギルドの酒場中が振り向いた。
夜は、まだ、始まったばかりだった。




