重圧刃
音が、引いた。
噴気が尽きる。甲竜が吸気に入る。ほんの一拍、機械の巨体が動けなくなる。
その一拍に、シンは足場から身を投げた。
重力の向きを、足の裏から外す。天井を床にしていた向きが、元へ戻った。体は真っ逆さまに落ちはじめる。耳元で風が唸り、広間がぐるりと上下に回った。
甲竜が気づいた。
首が上がる。血のような赤い目がこちらを向く。口が開く。喉の奥で、白い蒸気がふくれあがる。
(間に合わない)
いいや、間に合う。この化け物が首を振るのに四呼吸。蒸気を吐くのに三呼吸。休眠期に、全部数えた。
【領域剣技《重圧》 作用線:刃】
刀身が唸った。
重さが、一点に集まる。体重の十倍。いや、それ以上。刀の軸に、刃に、切っ先の最後の一粒に、見えない鉄塊が収束していく。柄を握る右手の指が悲鳴を上げ、手首の骨が軋んだ。
持たない。だから長くは使わない。必要な瞬間に、必要な一点にだけ。
甲竜の吐息が真上へ噴き上がった。熱が頬を焼く。構わずに突っ込んだ。
「ここだ――!」
刃が継ぎ目に入った。
ずん、と。
地の底が割れたような低い音が、広間を貫いた。
馬車三台分の巨体が、びくんと跳ねる。装甲の隙間に滑り込んだ刃から、赤い光が溢れた。一枚、二枚、三枚と、背中の板が内側から押し上げられて弾け飛ぶ。
ごおおおおおおお――
咆哮ではなかった。巨大な機械が、骨を砕かれる音だった。
重圧の刃は、装甲の下を走る動力の幹を、ただ一刀で断ち割っていた。
黒鉄の巨体が前のめりに崩れる。轟音。地震のように床が揺れ、剥がれた装甲板が雨のように降った。団員たちは悲鳴を上げて床に伏せ、ギルバートは腰を抜かしてその場に座り込んだ。
土煙がゆっくり晴れていく。
しん、と静まった広間に、立っている者が一人いた。
砕けた装甲の山の上で、刀を下ろした少年。
「……っ、は」
誰かが息を吐いた。
魔術師の女が膝から崩れ落ちる。ロイドは握ったままの剣を見つめて動けない。A級の精鋭八人が、眠っている赤子を覗き込むような顔で、息を殺していた。
最初に走り出したのは、マテオだった。
「シンさんッ!」
「うわっ」
胸に飛び込まれて、尻餅をつく。
「痛い痛い痛い!足、足!」
「すんません!!でも、生きてた、生きてたぁぁ……」
「泣くなよ。なんで戻ってきたんだ」
「団長に反対して、でも結局引きずられて、俺、何もできなくて――!」
号泣する荷運びの背中を、シンはぽんぽんと叩いた。
「声が聞こえたから、迷わず戻れた。ありがとな」
マテオはまた泣いた。泣きながら、腰の袋から水筒を出して、押しつけてくる。
「飲んでください。シンさん、唇が真っ白です」
「ああ、悪い。……パンも半分ある。食うか」
「それ、俺の台詞ですって!」
泣き笑いの顔が、少しだけ可笑しかった。死にかけた直後に、昼の黒パンの話をしている。
そのとき、シンは気づいた。右手が柄から離れない。握りしめたまま指が固まって、骨が熱を持って脈打っている。刀身を見ると、刃が三か所も欠けて、鋸のようだった。父が持たせてくれた、短い片刃の刀だ。十二の誕生日に「剣士にならなくても、身は守れ」と渡された。それが、一度の斬撃でこれだ。
(強い。強すぎる。けど)
反動は全部、自分に返ってくる。
膝が笑った。その場に座り込んで、荒い息を整える。
「マテオ、肩貸して。それと、あの輪を」
「輪?」
「壁際の手動の制動輪。ボスが止まったあとに回さないと、また動く」
古代の守護機は、暴走のあと必ず手動で止める仕組みになっている。保守者が点検するための装置だ。シンはなぜか、それを知っていた。階層主権を得た瞬間に、頭の奥へ流れ込んできたのだ。
マテオに支えられて、広間の隅の巨大な輪に左手をかけた。ぎ、ぎ、ぎ、と半回転。
輪が回りきった。
ボス部屋全体が、淡い金色の光に包まれる。
【第五層 甲竜 停止】
【階層主権 状態:安定化済み】
壊れていた壁の灯りが、一つ、また一つと点いていく。重苦しかった空気が、ふわりと軽くなった。
マテオが天井を見上げて呟いた。
「あったかい……」
「ここ、俺の領土になったから」
冗談のつもりだった。口にした途端、妙に胸の奥へ響いた。
領土。
誰も見向きもしない迷宮の隅っこで、二年かけて拾い集めた欠片が、階層まるごと、手のひらに帰ってきた。
そのとき、ざり、と砂利を踏む音がした。
「……おい」
低い声に、顔を上げる。
ギルバートがふらつきながら立ち上がっていた。大剣は曲がり、髪は埃まみれ、顔は恐怖と屈辱で歪んでいる。それなのに、目の奥には別の光があった。
計算の光だった。
「その本をよこせ」
広間が凍りついた。
「白地図帳だ。階層を取れる道具なんだろう。それがあれば、この第五層はうちのクランのものになる。魔石も全部、俺の隊の取り分だ」
「団長……?」
ロイドが信じられない顔で振り向いた。
「仲間の命を救ってやったのは誰のおかげだと思ってる。契約の範囲内だ。その帳は、クランの資産だ!」
マテオが真っ赤になって立ち上がりかけた。シンはそれを片手で止めた。
疲れていた。右手は動かない。刀は欠けている。足は折れている。目の前には、まだ動ける精鋭が八人いる。
なのに、心は凪いでいた。
「いま、何て言いました?」




