天井を歩く少年
鉄鷲団は、全滅の一歩手前にいた。
「盾!盾はどうした!」
「割れた!俺の盾が……ぐあっ!」
鐘を割ったような音がして、重装の男が壁まで吹っ飛んだ。分厚い鋼の大盾が二つに割れて、床を転がる。
黒鉄の重圧洞、ボス部屋。
円形の広間の中央に、それは身を起こしていた。
黒鉄の甲竜。
全長は馬車三台分。背中の装甲は一枚が楯ほどもあり、鱗のように重なって、赤い光の隙間から白い蒸気を噴き上げている。尾の一振りで石柱が折れ、前脚の一歩で床板が割れた。生き物ではない。古代の機械の守護体だ。
「関節を狙え!」
「やってる!刃が通らねえ!」
魔術師の火球が装甲に当たって、花火のように散った。甲竜は気にも留めず、首をめぐらせて次の獲物を探す。
鉄鷲団はA級だ。街で名を知らない者はいない。その精鋭八人が、たった一匹の機械に、手も足も出ない。
「団長!撤退です、無理だ!」
副長のロイドが叫んだ。
「どこへだ!入口は崩れてる、ボス部屋を抜けるしかないと言ったのはお前だろう!」
「だからなぜ起きたのかと――!」
ギルバートの大剣は、先ほど尾に叩かれて、飴細工のように曲がっていた。
起きた理由は単純だ。休眠中の守護機は、振動に反応する。地図描きが再三止めた槌の音が、広間まで伝わっていたのだ。三刻を無駄にした、と罵られた確認作業は、眠っているものを起こさずに通り抜けるための時間だった。
そのことを、ここにいる誰もまだ口にしない。
「団長!」
荷運びの青年が泣きそうな声で叫んだ。
「戻りましょうよ、シンさんが、シンさんを――」
「黙れ、マテオ!あいつはもう死んでる!」
「死んでません!」
マテオの声は震えていたが、折れてはいなかった。
「あの人は、絶対、死んでません」
そのとき、天井がきいと鳴った。
一人が顔を上げた。二人目が上げた。暴れていた甲竜の咆哮が一拍だけ途切れて、全員の視線が上へ集まる。
広間の天井近くに、古い鉄骨が走っていた。何百年も誰も触れなかった、保守用の点検路。
その上に、小さな影が立っていた。
いや、立っているのではない。足場の裏側、天井に靴の裏をつけて、そこが床であるかのように一歩、二歩と歩いている。
「……あれ」
魔術師の女が、杖を落としかけた。
「人が、逆さまに、歩いて……」
少年はぶら下がっているのではなかった。重力の向きが、彼の足元だけ違うのだ。外套の裾が、下ではなく天井側へ垂れている。
「シン、さん?」
ギルバートは、顔から血が引いていくのを、自分で感じた。
死んだはずだ。索は切った。あの高さから落ちて助かるわけがない。
その死人が、天井を歩いている。
「馬鹿な……お前、どうして」
「切られた索の先が、まだ俺の腰についてたので」
少年の声は、驚くほど平らだった。
「繋がってました。最後まで」
ギルバートの喉が、からからに乾いた。自分が握っていたのは、切れた索の「こちら側」だけだった。もう片方の端は、最初からあの少年の腰にあって、少年はそれを手繰って、ここまで登ってきたのだ。団長の自分が一度も見ようとしなかった、行き止まりの裏側を通って。
それだけ言って、足場の端で止まる。見下ろす。甲竜の背中、赤い光の筋、蒸気の噴き出す間隔。
(三十八呼吸ごとに、背中の板が開く)
休眠期の第五層で、何度も観察した。どの板が、どの順番で、どれだけ開くか。この化け物の背中の図は、とうの昔に頭の中にある。
だから、いま必要なのは、下へ怒鳴ることだった。
「マテオ!左の壁際に低い排水口がある、そこまで走れ!」
「で、でも、シンさんが!」
「いいから!動ける人は、全員マテオについて!」
マテオは顔をくしゃくしゃにして頷いた。倒れた仲間の腕を引いて、広間の端へ走る。他の団員も、何が起きたのか掴めないまま、その声に引かれて動き出した。迷いのない号令だったからだ。
一拍遅れて、ロイドが怒鳴った。
「聞こえただろう!動け!あの声の言う通りに動け!」
副長の声が重なって、乱れていた隊列がようやく一本の流れになった。ロイドは、団長の顔を一度も見なかった。
「待て、貴様ら、俺の許可なく――」
「団長」
真上から呼ばれた。
「剣、曲がってますよ」
「なっ」
「あと十二呼吸で、甲竜が背中を開きます。そこから先は、俺の仕事です」
「ふざけるな!地図描き風情が、A級を――」
ギルバートが叫んだ瞬間、甲竜が首をもたげた。
ごおお、と蒸気が噴き出す。そして背中の板が、ぱかり、と割れた。
たった一呼吸だけ。重なった装甲の隙間に、黒く細い筋が走る。真上から見下ろさなければ絶対に気づけない、継ぎ目だった。
シンは刀を握り直した。
右手の指が小さく震えている。左手で押さえつけた。
(怖いな)
一人で笑った。
(でも、見えてる)
天井を歩くのは、これで三度目だった。一度目は保守足場の入口で試して、頭に血が上って吐きかけた。二度目は階段の代わりに使って、肩を打った。三度目の今も、胃の中身だけが少し上へ寄っている。
(慣れる日は、来ない気がする)
足場の端から、体を前へ傾けた。
「いきます」




