最後の0.8パーセント
通れる、と思った穴は、通れなかった。
這って進んだ先で、岩の隙間がぴたりと狭まった。水の音はすぐそこにある。なのに肩が入らない。
「排水路か……」
出口に見えたものは、ただの水抜きだった。人間が通れる道ではない。
普通の探索者なら、ここで諦める。助けを待つか、祈るか、残った保存食の数を数えはじめる。
シンは壁を叩いた。
ごつ、と鈍い音。三歩ほど横にずらして、もう一度叩く。こん、と軽い音。
「厚みが違う」
声に出した瞬間、頭の中が静かになった。
二年間、荷を押しながら繰り返してきた作業だった。轍の高さを覚える。壁の染みを覚える。ボス部屋へ続く保守足場の位置を、毎日少しずつ頭の中の地図へ継ぎ足していく。誰に頼まれたわけでもない。給金も出ない。ただ、行き止まりを見るたびに、その向こうが気になって仕方がなかった。
――行き止まりを調べる暇があるなら、最短路を描け。
今朝も言われた。いつも言われる。
でも、そのおかげで、いま頭の中に答えがある。
排水路の高さは、轍の跡から四尺下。保守足場の根元は、あの轍の真北、十八歩。砂の落ちる音は二重だった。一つは崩れた穴、もう一つは、まだ誰も開けていない空洞。水の音は、その空洞の下を通っている。
三つを一本の線で結ぶ。
その前に、左足首を縄で巻いた。鞘を添え木にして、歯を食いしばって締め上げる。
「……っ、折れてるな、これ」
自分で言って、自分で苦笑いした。折れた足で、行き止まりを調べている。団長が見たら、また「無能が」と言うだろう。
それでも手は止まらなかった。縄の結び目を、きゅ、ときつく引く。結び方だけは、二年間の荷運びで嫌というほど身についていた。
排水路の脇、肩幅ほどの壁の継ぎ目に、刀の鞘の先を差し込んだ。力は要らなかった。石は、待っていたみたいに鳴いた。
ぎ、と板石が横へずれる。
偽物の壁だった。
身をよじって滑り込む。足首の痛みで視界が白くなったが、奥歯を噛んでやり過ごした。
そこは四畳ほどの小さな部屋だった。壁一面に、見たことのない文字が彫られている。中央に低い台座。その上に、掌ほどの金属の円盤が、ひっそりと置いてあった。
百二十五個目。
誰も見つけられなかった、最後の一点。
シンは震える膝で台座の前に座り、円盤を見つめた。
(触れるだけじゃ、足りない)
それは嫌というほど知っていた。数か月かけて百二十四の点を塗りつぶしてきた。触れても、踏んでも、点は「つながらない」。本人が自分の足でそこへ行き、自分の目で周囲の構造を確かめ、前後の道との位置関係を閉じて、はじめて――。
排水路の勾配。轍の高さ。保守足場の根元。砂の音。水の音。
全部が、今この部屋で、一本の線になる。
「閉じた」
掌を円盤に置いた。
かちり。
ひとりでに開いた白地図帳の頁が、風もないのにめくれ上がる。第五層の余白が、端から金色に染まっていく。
【黒鉄の重圧洞 測量認証率 100.0%】
文字が弾けた。
壁の古代文字がいっせいに青く灯り、床から天井へ光の線が走る。目に見えない糸が腕や背骨に絡みついてくるのを感じた。怖くはなかった。ずっと昔に失くしたものが、掌に戻ってきたような感覚。
【第五層 階層主権 取得】
【階層法則《重圧》 記録】
【領域剣技《重圧》 装填 1/1】
そして、体が軽くなった。
本当に、ふっと。第五層に入ってからずっと背中に乗っていた岩が、消えたのだ。肺の底まで空気が入る。
「……息が、できる」
荷を下ろした人間の声だった。
床から小石を拾った。掌に載せる。重くなれ、と念じた。
ごとん。
小石は掌にめり込み、慌てて手を傾けると床に落ちて、小さな穴を空けた。
軽く、と思うと、ふわりと浮いた。向きを、と思うと、壁へ転がっていって、ぴたりと止まり、壁の面を「床」にして立った。
「……は」
笑いが漏れた。
「は、ははは、はははは!」
笑ってから、自分で驚いた。死にかけていたのに。足は折れているのに、涙まで勝手に出てくる。
この力が何なのか、まだ分からない。ただ一つだけ分かった。ここで、ひとりぼっちで終わる人間では、もうない。
頁の最後の行に、もう一つ文字が浮かんでいた。
【階層主権 状態:安定化待ち】
【警告:守護機が稼働中。一部区画の制御を回復していません】
領土、と呼ぶには頼りない。でも、ここが自分の場所になったことだけは、はっきり伝わってくる。
立ち上がろうとしたとき、地鳴りが壁を伝って響いた。
ごおおおお、と何かが唸る。その唸りに、聞き慣れた声が混ざった。
「たすけてぇぇぇっ!誰かああああ!」
マテオだ。
笑いが消えた。
保守室の奥に、細い通路が口を開けている。足元の石に、淡い金色の矢印が浮かんでいた。ボス部屋へ続く、保守足場の入口。
「俺を切った人の隊だけど」
欠けた刀を引き抜いた。
「マテオは、置いていけない」
仕返しがしたいのではない。見返したいのでもない。そこに、まだ救える人がいる。それだけで足は動いた。
光る矢印の上を、シンは走り出した。
痛みは、不思議なほど遠かった。




