↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白地図の測量剣士 ~命綱を切られた地図描きは、歩いた階層を剣にする~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 最後の0.8パーセント

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/20

行き止まりの仕事

荷車の右の車輪が、昨日より一寸だけ深く沈んでいた。


 気づいたのは、シンだけだった。


 黒鉄の巨坑、第五層。通称、黒鉄の重圧洞。この階層では空気そのものが肩にのしかかる。荷を運べば倍の汗が出るし、剣を振れば倍の速さで息が上がる。迷宮都市オルステッドの探索者が「五層は二日で飽きる」と言うのは、景色のせいではない。体が先に音を上げるのだ。


 その五層の、誰も見向きもしない轍の脇に、十五歳の地図描きは膝をついていた。


 指で泥をなぞる。壁際のところだけ、まだ湿っている。


「団長。止まってください」


 返事はなかった。先頭の大男は、背中の大剣を揺らしながら、ずんずん奥へ進んでいく。


「壁の向こうで、砂が落ちてます。一定の間隔で、ずっと」


 ざ、ざ、ざ。


 風でも水でもない。細かい粒が、どこかの空洞に吸い込まれていく音。


 ようやく足が止まった。ギルバートが振り返る。二十四歳。A級クラン〈鉄鷲団〉の団長で、実績は本物だし、腕も本物だった。ただ、今日の彼の目は、剣ではなく納期しか見ていない。


「地図描き。お前の仕事は何だ」


「測量と、記録です」


「違う。ボス部屋の手前まで、最短で俺たちを案内することだ。壁の裏の砂の音を聞くことじゃない」


 顎で示された先に、掘りかけの横坑がある。鉄鷲団は、ボス部屋の手前に走る新しい黒鉄鉱の脈を押さえる契約を結んでいた。一本掘り抜けば、日当の十倍が転がり込む。納期は明日。


「あの壁、厚みが合いません」


 シンは腰の縄を伸ばして見せた。


「二日前は三歩分あった。今日は二歩半。壁が削れてるんじゃなくて、向こう側が広がってる。補強なしで槌を入れたら足元ごと――」


「黙れ」


 低い声だった。


「昨日も一昨日も、お前はそうやって三刻を無駄にした。行き止まりを舐めて回るのは勝手だが、他人の稼ぎを削るな。無能が」


 無能。


 言われ慣れた単語だった。シンは反論の代わりに、胸に抱えた革表紙の本を少しだけ強く抱え直した。


 白地図帳。十二歳の誕生日に職業発現とともに現れた、古びた一冊。自分の足で歩いて、自分の目で確かめた場所だけを記録する。それ以外のことは何もできない。神殿の鑑定士は肩をすくめて言った。戦闘職でも魔法職でもない、〈白図師〉。名前だけは立派な不遇職だ。


 本を開く。黒鉄の重圧洞の頁には、細い金色の線がびっしり走っている。その隅に、一か所だけ灰色に欠けた余白がある。


【黒鉄の重圧洞 測量認証率 99.2%】


 百二十五個の観測点のうち、百二十四までを、数か月かけて塗りつぶしてきた。残りは、たった一つ。


 完成したら何が起きるのか。誰も知らない。完全に踏破した人間が、歴史上ほとんどいないからだ。みんな最短路だけ通り、四割で満足して先へ進む。


 だからシンは、この荷運び同然の仕事を受けた。日当は銀貨二枚。最短路など描きたくなかったが、第五層に通える機会は貴重だった。残りの一点は、このあたりのはずなのだ。


「団長、半刻だけ待ってください。あと半刻あれば――」


「おい、槌を入れろ」


 ギルバートが仲間に顎をしゃくった。


 どん。


 最初の一撃は、ただの音だった。


 どん、どん。二撃目、三撃目で壁に細い亀裂が入り、砂の音がはっきりと近くなる。


「下がってください!足元が!」


 叫んだときには、床が鳴っていた。


 洞窟全体が深く息を吸うように、ごおん、と揺れる。轍の跡が割れた。幅一尺、二尺、三尺。亀裂が足元で花のように咲き、荷車の車輪がずるりと傾く。


「崩れるぞ!引け!」


 隊の半分が悲鳴を上げて後ろへ走る。ギルバートはもう壁際から離れていた。さすがはA級だ。反応が速い、と頭の片隅で思った。


 遅れたのは荷車を押していた青年だった。


「うわっ、俺の荷が!シンさん、足、足が!」


 マテオ。十八歳。声が大きくて、いつも最初に荷を抱え、昼の黒パンをシンと半分に割る奴だ。


 傾いた足場の縁で、マテオの靴が空を踏んだ。


 考えるより先に体が動いた。シンは自分の腰の索をほどくでもなく、荷車ごと滑り落ちかけるマテオの襟首をつかんで、まだ崩れていない岩棚へ放り投げた。


「ぐえっ」


「そこにいろ!」


 助かった。


 そう思って振り向いたとき、金属の光が目に入った。


 シンの腰から伸びた命綱の端を、ギルバートが握っていた。地図描きは先頭で測るので、いつも隊と索で繋がれている。その索の先に、団長の手がある。


 その手が握った短剣が、ぎらりと光った。


「悪いな。荷が重い」


 ぷつり、と音がした。


 落ちた――はずだった。


 実のところシンは、切られる半拍前に、足場の崩れる方向を見ていた。亀裂の向き。砂の流れる向き。さっき測った壁の厚み。三つの手掛かりが、右下の斜面の一点で重なっていた。


 二間先。壁に偽装された横穴。


 切れた索の、シンの側にはまだ十歩分ほどの長さが残っている。空中で身をひねり、索の先の鉄のかぎ爪を壁の突起へ投げた。がきん、と岩に食い込む。


「頼む、持て――!」


 体が大きく振られる。壁にこすれた背中が焼けるように痛んだ。左足首が、嫌な音を立てた。


 それでも横穴の縁に転がり込んでいた。


 上のほうで、岩の崩れる音と悲鳴が続く。その中で、マテオの声だけがやけにはっきり届いた。


「戻りましょうよ!シンさんが落ちたんですよ!団長!」


「うるさい!行くぞ、ボス部屋を抜ければ上へ出られる!」


 足音が遠ざかる。


 穴の底に、静けさだけが残った。


 左足首は動かない。全身が痛い。ところが頭だけは奇妙に冴えていて、悔しさや怒りが湧くより先に、数字が浮かんだ。


 99.2%。


「……ここ、行き止まりじゃない」


 壁に耳を当てた。砂の音の奥に、もう一つ別の音が混じっている。ぴちゃり。ぴちゃり、と。


 水だ。


 水が流れる場所には、必ず水の行き先がある。


 シンは唇の端を、ほんの少しだけ持ち上げた。


「ここには、まだ水の行く場所がある」


 見捨てられた少年が、初めて口にした、ほとんど笑い声のような独り言だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。