鏡晶の頁
最後の観測点は、谷の岩壁の奥にある。夕方になると谷の水が通路へ流れ込むので、足首が浸かる前に点を閉じて戻らなければならない。
細道には光が一筋も届かなかった。ランタンはダリウスの腰に一つだけ下がっているが、油が少ないので、点けるのは最後の測量のときと決めてある。
「光に頼るな。手で触って進め」
シンが先頭に立ち、壁の凹凸を指でなぞった。足の裏で床の傾きを確かめながら、一歩ずつ進む。
細道は肩幅ぎりぎりで、バルトは荷を胸に抱えて横向きに進んだ。岩壁の継ぎ目に触れるたび、シンは指先でその位置を覚えていく。
暗闇では、仲間の音だけが頼りだった。バルトの太い呼吸、フィオナの鉛筆の音、ダリウスの膝の装具のきしみ、スノウの小さな足音。
ふいに、背中の布がちょんとつままれた。
「……フィオナ?」
「違うわ」
「私です」
ティナだった。声が少し震えている。
「ごめんなさい、暗いの、苦手で。歩数を数えてたら怖くないので、ずっと数えてます」
「いいよ。つまんでろ。数えた分は、あとで教えてくれ」
足元の水は、少しずつ増えていた。入ったときは靴底が濡れる程度だったのに、いまはくるぶしの手前まで来ている。
***
通路の突き当たりは、真っ暗な小部屋だった。中央に、見慣れた金属の円盤が据えてある。
掌を置こうとして、シンは手を止めた。まだ、頭の中の線が全部は閉じていない。ここで焦って置けば、数字がずれたまま記録されてしまう。
壁の厚みは、バルトが大槌の柄で叩いた音の重さで測れる。天井の高さは、小石を真上に投げて、戻ってくるまでの間を数えればいい。来た通路との角度は、壁沿いに手を滑らせて曲がりを数えれば出る。
残るのは谷との位置関係だった。ここでは目が使えないので、さっき打った杭が頼りになる。
「谷の縁の杭から、ここまで三百二十歩です」
ティナが小声で言った。
「傾きは、一度半。床で水を流したときと同じ、ごく緩い坂だ」
シンが続けると、フィオナが暗闇で鉛筆を走らせた。
「杭の位置は地図に落としてあるわ。そこから横にどれだけ進んで、縦にどれだけ下がったかを足せば、この部屋が谷のどこにあるか出る」
長い沈黙のあいだ、シンは目を閉じて、頭の中で線を結んだ。壁、天井、通路、谷。汗が顎を伝って、足元の水へ落ちた。
「……出たわ。谷の岩壁の裏、杭から見て真下の少し奥」
「閉じた。いける」
掌を置く。かちり、と音がした。
【鏡晶の回廊・第八層 測量認証率 100.0%】
【階層法則《鏡晶》 記録】
暗闇の中で、円盤だけが青く光った。互いの顔がはっきり見えて、全員が思わず笑った。
青い光が壁の古代文字を浮かび上がらせ、フィオナがすぐに顔を寄せる。
「読める。『光は、嘘をつかない。嘘をつくのは、見る者の目』」
「詩か」
「保守者の標語みたいね。鏡の森は、光に頼って近道する人を追い返すための階層なのよ」
「近道をしなかった俺たちは、合格か」
「合格。ただし満点は、ティナが行き止まりへ連れていった分だけ引いて……」
「ええっ!」
「冗談。満点よ」
ティナが安堵のあまり、シンの背中に額をぶつけた。バルトが、盾の縁を指で叩きながら言う。
「暗い中を、声だけ頼りに歩いたのは悪くなかった。見えない分、仲間が近かった」
誰も茶化さなかった。ただ、ダリウスだけが「感想は戻ってからだ」と言って、足元の水を靴の先で蹴った。
***
水が増えているので、試すのは短くしなければならない。
フィオナが十秒を数える。バルトが盾を構え、ティナが耳を立て、ダリウスが背中を守るあいだ、シンは納刀して帳を開き、《重圧》を外して《鏡晶》を装填した。
「……九、十」
【再同調 完了 装填:《鏡晶》】
抜いた刀の表面に、薄い光の膜が張った。
ダリウスがランタンを点け、部屋の隅の床に置く。弱い光が一本の筋になって壁を打った。シンが刃をその前にかざすと、光がぐにゃりと曲がった。
刃の角度を変えるたびに、光は右へ、左へ、上へと折れる。バルトが歓声を上げた。
「光を、剣で曲げてる」
「円盤を支えてる柱の裏へ、回せるか」
シンは壁の出っ張りを使って、光を柱の裏へ送った。暗がりがぱっと照らされ、古びた荷物がひとつ転がっているのが見えた。
「何十年も前の探索者の荷物ね。光が届かない場所を、剣で読めるんだわ」
シンは足元の小石を拾い、膜に向かって放った。石は薄い光をすり抜けて、ごつ、と床に落ちた。
「石は止まらない。光と魔力の波にだけ効くんだ」
「便利だけど、使いどころは選ぶわね」
「迷子捜しには、便利ですよ!」
「迷子になるのは、だいたいお前だろ」
「バルトさんもです!」
「俺は迷子じゃねえ。ちょっと遠回りしてるだけだ」
「使える場所では、強いよ」
バルトが膜を指でつつこうとして、ぱしっと弾かれた。
「冷てえ」
「冷たい光なのよ。焼けるんじゃなくて、曲がるの」
「ランタンより強い光でも、曲がるのかしら」
「外で夕日を受ければ分かる」
ダリウスが足元を見下ろした。水は、もう足首に届いていた。
「感心してる場合か。出るぞ」
帰り道は、ランタン一つで足りた。シンが刃で光を折り、曲がり角の先まで先に照らしてやったからだ。水が膝へ上がってくる前に、全員が細道を抜けた。
谷の向こうで、光の筋が夕暮れの色に変わっていく。さっきまで虚像だった広間が、本物の姿でそこにあった。
そして、谷のこちら側の木陰で、何かがぎらりと光った。
夕日の反射ではなかった。人の目だった。




