触れられる景色
日が落ちるまでに回廊を出られなければ、鏡の森で夜を越すことになる。水筒は残り半分、干し肉は一食ぶんしかない。
そのとき、バルトが自分の靴を見下ろして首をひねった。左右とも、靴底だけがじっとりと濡れている。
「さっき、水たまりを踏んだんだ。どこだったかな」
「思い出して」
「入口から三つ目の曲がり角……いや、四つ目か?」
誰も答えられなかった。同じ顔の壁が延々と続く回廊では、曲がり角の数さえ当てにならない。
シンはしゃがんで、床に点々と残るバルトの足跡を指でなぞった。壁に映った足跡が何十にも増えて見えるので、実際に濡れているものだけを、指の腹で一つずつ確かめる。
濡れた跡は、途中から一方向にだけ細く伸びていた。
水筒の水を一滴、石畳に落としてみた。丸い雫はしばらく止まったあと、ゆっくりと左前へ滑り出した。
「床が傾いてる。一度か二度、目では分からない程度だけど。さっき欠片が転がっていったのも、これだ」
「水は低いほうへ流れるものね」
フィオナが頷いた。シンが床に耳をつけると、遠くから細い水の音が聞こえた。
「この下に排水路がある。鏡は光を返すけど、水は映らない。水が流れていく先に、本物の道があるはずだ」
足跡の向きと、雫の行き先。二つを重ねると、一枚の壁を指した。ほかの板と寸分違わない水晶だった。
バルトが大槌の先で、こんと叩く。軽い音が返ってきた。
「軽ィ。中が空っぽだ」
板をずらすと、人ひとりがやっと通れる細い通路が口を開けた。湿った風が奥から吹いてくる。
「見つけたのは、俺の靴だな」
「靴の手柄ね。持ち主には、夕食のおかわりを一杯」
「靴じゃなくて、俺に出すんだよな?」
「靴の持ち主に、よ」
「やったぁ!」
バルトが拳を突き上げ、笑い声が狭い通路に弾んだ。
***
通路は思ったより長かった。進むほどに水の音は大きくなり、床の傾きも、一度から二度へと強まっていく。スノウは先に立って、濡れた床を迷いなく進んだ。
シンは歩数を数え、壁の継ぎ目と傾きの向きを、地図の端に書き留めた。フィオナは手帳の余白に、水の流れる向きを小さな矢印で写していく。
途中で、ダリウスの足が止まった。左膝の装具の留め金が、からんと鳴る。
「少し休ませろ」
「痛みますか」
「たいしたことはねえ」
「呼吸が浅いです。膝をかばう足音もしてます」
ティナが静かに言うと、ダリウスは舌打ちした。バルトは黙って背を向け、しゃがみ込んだ。
「乗れ」
「馬鹿言え、俺は三十八だぞ」
「俺は十七だ。年上くらい背負える。鍋も込みでな」
シンは通路の壁に、炭で小さな印を書いた。『休憩点。膝の悪い人あり』。
「地図に書くのか」
「次に通る人にも、膝の悪い人はいるかもしれないので」
ダリウスはしばらく黙っていたが、やがてぶすっとした顔でバルトの背に乗った。出口で降ろされたとき、バルトの腕が小さく震えていたことに気づいたのは、ダリウスだけだった。
***
通路を抜けると、広い円形の広間が見えた。柱が並び、天井には星のような光が散っている。床は一面の水晶だった。
「ここが最深部ね。日が沈む前に、測り終えましょう」
ティナが駆け出しかけて、フィオナがその腕をつかんだ。
「待って。あれが本物か、確かめてから」
「でも、すぐそこです」
「私は文字なら読めるけど、距離は目で測れないの。だから、確かめるの」
シンは縄の端を手近な柱に結び、先に石を括りつけた。ダリウスが縄を繰り出し、フィオナは全員の足が床に残っているのを確かめる。
石を広間の入口めがけて投げると、空中をすうっと進み、何にも触れないまま落ちていった。縄がぴんと伸びきるまで、石は止まらなかった。
床がなかった。
しばらくたって、遠くで小さな音がした。ダリウスが測定具を覗き込む。
「底まで五十メートル。落ちてたら、俺の鍋がひとつ増えるところだ」
「どういう計算だ」
「葬式の弁当だ」
広間に見えたものは、谷の向こう岸の景色を水晶が映して、こちら側へ見せているだけだった。踏み込んでいれば、全員が落ちていた。
フィオナは青い顔でシンの袖をつまんだまま、しばらく離さなかった。
「高いところは苦手なの。でも『確かめてから』と言えて、よかった」
「苦手なのに、言えたんですね」
「怖いことと、確かめることは、別でしょう」
ティナが感心したように、尻尾を揺らした。
帰る前に、シンは谷の縁へ杭を一本打ち、板を括りつけて書いた。『この先、広間に見えるが谷。落ちたら五十メートル』。フィオナが板の下に、落ちていく人の絵を添える。
「縁起の悪い絵だな」
「悪いほうが、人は止まるのよ」
バルトが絵の人物に、涙の線を足した。ティナは板を見つめて、小さく唸った。
「この絵、夢に出ます」
「出てもいいから、近づかないでね」
そのとき、スノウが谷の岩壁の途中へ鼻を向けて、きゅうと鳴いた。
壁面に細い割れ目があり、さっきの排水路の水が、そこから糸を引くように落ちていた。割れ目の奥は、光が一筋も届かない暗さだった。
「あれが、本物の道か」
「ランタンの油は、あの奥まで足りるかしら」
谷の向こうで日が傾き、水晶の床が橙に染まりはじめていた。




