鼻も耳も万能ではない
「待って」
ティナが手を挙げた。岩壁に沿って歩き出して半刻、ランタンの油は残り二本ぶん。出口の方角を決められなければ、この回廊で夜を越すことになる。
「足音が二つ聞こえました。右と、左から。右のは近くて、左のは少し遅れて」
「俺たちは止まってるぞ」
「はい。でも聞こえます」
白い耳が、ぴくぴくと動く。全員が息を止めた。たしかに遠くから、こつ、こつ、と足音がする。右の壁から先に、少し遅れて左の壁から、同じ音が返ってきた。
「反響よ」
フィオナが言った。
「音が壁で跳ね返って、別の方向から戻ってきてる。遅れの長さを測れば、壁までの距離が出せる」
彼女は小さな砂時計を取り出し、ティナの合図に合わせて、足を一度踏み鳴らした。こつ。
「三つ数える間に返ってくる。音の速さから考えると、壁までは七十歩」
シンは眉を寄せた。右の壁は、どう見ても二十歩先にある。
「その壁は鏡で、七十歩先に本物の壁があるってことか。……ひとつ聞いていいか。この森、霧が濃い。湿った空気だと、音は速くなる」
「え」
フィオナの鉛筆が止まった。手帳を見つめたまま、唇を噛む。
「入れてない」
「検算しよう」
「しなくても分かる! 今やってる!」
ばりばりと芯が折れた。しばらくして、彼女は小さく言った。
「……五十八歩」
「そっちのほうが、手前の壁の見え方と合う。出口は、その本物の壁の向こうだ」
「ありがとう。間違えた」
「普通に言うんだな」
「言わないと、次に進めないでしょ」
悔しそうな横顔だった。それでも、手帳の余白に『湿度』と大きく書き足す手は、速かった。
***
その五十八歩を歩いたのは、ティナの案内だった。
「こっち。こっちが出口の匂いです。樹脂の匂いは、出口の木から出てるはずなので」
右奥の通路は、甘い樹液の匂いが濃く漂っていた。五分、十分。全員がついていった通路の突き当たりは、行き止まりだった。鏡の壁が立ちはだかり、五人の困り顔が、ずらりと映っている。
「……あ」
ティナの耳が、へにゃりと垂れた。
「ごめんなさい。樹脂の匂い、壁の隙間から漏れてただけでした。それと、反響も変でした。ここは、私の鼻と耳がいちばん苦手な場所です」
彼女は笑って誤魔化さなかった。
「甘い匂いと反響が重なると、方向が分からなくなります。だから、私の判断だけで進まないでください。誰かに確かめてほしいです」
一瞬の沈黙のあと、バルトが大きな手でティナの頭をぽんと叩いた。
「言えて、えらいぞ」
「撫でないでください!」
「えらいって言ってんだ」
「えらいのは、嬉しいですけど!」
ティナが耳を押さえてむくれた、そのときだった。シンは、行き止まりの鏡の中の自分たちを見ていて、あることに気づいた。
ダリウスの持つ一本きりのランタンが、足元に影を落としている。鏡の外のバルトには、長い影がある。鏡の中のバルトには、ない。
「バルト、動くな。鏡の中の俺たちには、影がない」
「は?」
「映るのは光だけだ。遮った暗がりまでは、映らない」
その言葉に応えるように、鏡の壁が揺れた。鏡の中から、何かが滑り出した。
「構えて!」
ダリウスが鍋の蓋で、とっさにティナの前を塞いだ。鏡のような毛並みの狼だった。体の表面が磨いた水晶のようで、周りの景色を映して姿を消す。一匹が三匹に、三匹が九匹に見える。
「数が多い!」
「本物は一匹だ。ダリウス、灯りは今の一本のまま動かすな」
バルトの大槌が、ごんと振り下ろされた。空気を叩いた。偽物だ。
「違う!?」
「右の床を見ろ。影があるのは、あいつだけだ」
シンは前へ出た。装填は《重圧》。九匹の狼が一斉に飛びかかってくる。九つの牙、九つの爪。上下左右、全部が本物に見える。
シンは正面の像から目を外し、床だけを見た。ランタンの光で長く伸びた影が、一本だけ、確かに床の上を走っていた。
横から来た一匹を、バルトの大盾が受け止める。その隙に、抜いた刀が低く走った。重圧を乗せた刃が、影の持ち主の脚を払い、鏡像狼の体が床に叩きつけられる。残りの八匹は、霧のようにかき消えた。
「後ろ! 壁に、影が伸びてます!」
ティナの叫びで、シンは振り向いた。背後の壁に、跳び上がる狼の影が大きく映っている。二匹目だった。返す刃が、重さを失った狼を薙ぎ払い、壁に叩きつけた。水晶の欠片が、雨のように降った。
しん、と静まったあと、バルトが頬の欠片を払いながら言った。
ダリウスの鍋の蓋には、爪の跡が深く残っていた。
「ティナが見てなきゃ、背中を取られてた」
「…………!」
ティナの尻尾が、猛烈な勢いで回り始めた。
「うるせえ、風が起きてる」
「尻尾が勝手に!」
笑い声の中で、フィオナが真顔になって、ティナの肩に手を置いた。
「さっきの『誰かに確かめてほしい』は、団の決まりにしましょう。誰でも、分からないと言っていい」
「いいんですか?」
「いいに決まってるでしょ。分からないままの『たぶん』が、いちばん危ないの」
シンも頷いた。自分が、いちばん守れていない決まりだった。
そのとき、足元で、からん、と小さな音がした。砕けた水晶の欠片が一つだけ、床の上を転がっていく。止まる気配がなかった。平らなはずの床の上を、ずっと同じ方向へ。




